律は少し影が薄い。

阿十年前には控えめで地味なところが奈良仏教の魅力だと思われていたた。儀式の派手さが妙に不自然に感じられていたが見事に復元された阿修羅像はギンギラギンのハ〜デハデな奈良仏教のホントの姿を示してくれたんぢゃないか。間違いなく昔は豪華絢爛だったはずの奈良仏教も千数百年の埃に埋もれて本気で地味に成り果ててしまったのだ。中でも律宗は少し可哀想な感じだ。他の奈良仏教に比べてみても律は地味な上にも地味すぎる。元々は六つもあった奈良仏教の宗派の中でも華厳と唯識とともに地味すぎる律も元気に生き残っているが理論の研究に終始していた倶舎、三論、誠実の三宗派は実質的には鎌倉時代に華厳、唯識、律に収束されていた。。こんなことを考慮すると律の底力の凄さを感じる。とにかくサバイバルを遂げた三宗派のうち絢爛たる世界観や緻密な分析が光る華厳と唯識はいいけど律だけは人気もイマイチで影も薄い感じだ。それは戒律ずくめの宗派という悪いイメージのせいか。まるでゾンビが映画を通じて作られた悪いイメージのせいで悪者になっちゃうみたいな。しかし実は律にも華厳や唯識にも勝るフレキシブルな世界観が生きている。律では誰でも
が膨大な戒律を全て守れなんて野暮は言わない。膨大な戒律は相手によって守りやすいように少数の項目に集約される。つまり律宗の戒律は華厳の世界観のように膨大な世界を手のひらに納めることもできる伸縮自在な体系なのた。しかも戒律を通じて人間の境地を変えてゆくプロセスは唯識の理論をベースに設計されているのだった。何でもオール・オア・ナッシングが求められる現代社会は大も小を兼ね小も大を兼ねる律の世界より不自由で過酷なんぢゃなかろか。どうだ!奈良仏教は面白そうだろ!