死ぬ恐れがある

愛知県のスーパーでヨリトフグの肝臓が販売されていたという。このフクは無毒化な種類に分類されているらしく実際に当地では伝統的に食べられていたのだそうな。そもそもフグは自分自身では毒成分を製造できずモミジガイと呼ばれる猛毒ヒトデの仲間なんかを食べて毒を体内に蓄積する。だからモミジガイなんかが生息しない海域では毒が蓄積されないという話だ。もちろん同じヨリトフグだって猛毒の餌をタラフク食えば猛毒化する。実際にオキナワでは有毒なヨリトフグが発見されたらしい。こうして長年に亘り親しまれた地元グルメは地元民から無惨に奪い去られスーパーの社長さんは罪人みたいに指弾されてしまった。でも遥か離れたオキナワでの事例を根拠に愛知県のヨリトフグの危険性を語るマスコミや専門家の論理構成には現代に特有な気持ち悪さを感じる!ほんの少しでも生活を脅かす可能性のあるものは最悪の事態を防ぐために一律に有害因子として社会から排除しようとする動き。もう当事者がOkでも関係ない。有害なもの社会から排除され実害の有無などは無関係に有害だと断ぜられたものを提供した人間も悪人になる。こんな風潮の背景にあるのは現代人の
生活への高すぎる要求なんぢゃないか。昔なら人生は色々あったが幸せだったら満足だったろうが。今は平穏な生活を邪魔するものが何一つないのが現代人の生活の基本条件だ。そうゆう前提を基準に考えると世界は有害なものや悪人で溢れてしまう。耳掻きすったりヘソのゴマを取ったりするとシネマと専門家たちは喧伝する。 くしゃみを我慢するだけで人は死ぬんだとか。そんな風が吹けば桶屋が儲かる的なレアケースが制度や法律の根拠になる。こうして法律と科学とが結託すると誰にも実害を受けていない有効なローカル・ルールや現場の知恵なんかも排除されてゆく。これは20世紀70年代にトンデモな政策理論として話題になった悪名高き「橋の理論」の亡霊の仕業だ。ある政策に誰か一人でも不満を言えば政策は撤廃という珍妙な理論だ。しかし現の社会は互いに矛盾する利害が同居する場所なんだし対立する多様な利害を調整するのが資本主義社会の政府の役割だ。だから人数の多少とは関係なく一部の人の要求に対応していくと別の人の利害を脅かすことになり結果として互いが互いに首を締める地獄絵図みたいな世界が実現してしまうリスクがある。リスクが
ある行為は禁止しよう!