21世紀のマラルメ

実存主義の開祖の一人だったサルトルは「マラルメ論」の中で 神を失いつつある近代人の不安な苦悩に満ちた精神生活を切々と描いている。自分自身は神なき時代を生きようと覚悟したサルトルだったが当方の個人的な印象では詩人マラルメに対するサルトルの眼差しには深い同情の気持ちが見える。こんな評価が当たっているかは甚だ疑わしいが完全な間違いでもないだろう。 マラルメの同世代の悩みを神様の追放された以降の現代人には共有され得るだろうか。さて西洋は中世を卒業するに当たって神の束縛から解放されたが代わりに神様の配慮も拒絶してしまった。以前なら負ってしまった傷は癒され蒙った損失は別の何かで補償され痛ましい記憶も封印されるによって薄らいだ。そんな神様の配慮で人は何となく納得できていたが今や神様の配慮に人は満足できない。神なき時代には誰の配慮も期待できない。期待てきないなら人は自分の生活を自分自身で守らなければならなくなったし失ったものも自分の手で誰かから取り戻す以外になくなった。中世には中世の悩みがあり現代には現代の悩みが付きまとう。現代人が守ろうとしている生活も中世とは違っている
。現代人にとっての生活は常に平穏で快適なものでなくてはならない。だから現代人には少しでも自分たちの生活を脅かす要素があれば排除せずにはいられないだろう。しかも一部の人間の中で膨張した欲望は他人も生活を邪魔する異物として扱うまでになった。こんな生活は全能の神様でも実現できない。神様に実現できるのは色々あったが幸せだったという一生くらいなものだ。神様にだって無理な仕事を人間は制度や技術やシステムや法律で実現しようと試みるが思ったように首尾よくは行かないようだ。巨大化し続ける要求には人間ふぜいにゃ元々対応しきれない。できれば今なお神様は遠くで我らの心変わりを待っていてほしい。色々あったが全体は幸せだった人生だって悪くない。