平家物語とワイドショー

白鵬の不調で再び相撲取りに関する様々な是非論が蒸し返された。こうした野次馬的是非論が日本で派手に爆発したのは赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件に関する是非論だと言えるか。より正確に言えば赤穂藩主浅野匠が殿中で刃傷沙汰をおこしてからの一連の出来事に対する是非論か。この論争は多層的すぎてホントは物凄く複雑だった。特に武家の間には一連の出来事そのものの評価に関する論争があり幕府の採った態や措置に関する論争があり各藩の倫理規定や武士道そのものの方向性に関する論争もあったりしたのだ。この是非論は主に幕府の措置に対するもので内容としては義理か人情という意見の対立となった。ただし町人は幕府の措置については論ぜず赤穂藩主の行動や運命は同情的に受け止め浪士の忠義も絶賛したようだ。具体的な論争の内容は岩波思想体系の近世武家思想の巻や岩波古典文学体系の浄瑠璃関係の巻なんかを参照されたい。んで時代は今に近づいて話題は2、26事件に移る。この事件では反乱軍の行動に対する評価が愛国的行動だったのか単なる反逆だったのかに二分され非常に熱い是非論を巻き起こしたらしい。しかし天皇陛下が反乱軍を単なる逆徒
と断ぜられ将校全員も処刑されたことで論争も表面的には収束してしまった。このときも反乱軍への静かな同情が残る。このように日本伝統の是非論には断罪か同情かの対立が見られ最終的には同情的な感覚が生き残る。興味深いことに近代になると論争は誰に同情すべきかが問題になり忠臣蔵などでも吉良上野に同情する作品も現れる。この武家や文学者のような断罪か同情かというよな論争は忠臣蔵以前には整理された記録が見えない。おそらく論争そのものは近世以降の知識分子や政治家などの弄ぶところであり町人などの生活者は一貫して同情的な感性で出来事や歴史を捉えていたように思える。この感性は古く平家物語にもみられる。もちろん平家物語は歴書というより文学作品だが歴史的な出来事として同情とともに受け止められた。その上に作品の構造として都の人々の同情的なコメントが所々に入る。しかも不思議なことに都の人々は悪逆非道を極めた平家一族の被害者だけでなく平家一族そのものにさえ同情を寄せる。作品の構成も敢えて悲惨な最後を描くことで平家一族を同情の対象にしている。これは当然ながら仏教に由来する日本独自の無常感の現れだが無常を離れ
ても同情的な感性は普遍性あるもののように生き続け
同情と糾弾を巡る近代の論争を通り抜け現代のワイドショーにまで受け継がれる。昔のワイドショーは一種の大衆向け教養番組としてスタートしゴシップ的な要素を取り入れながら是非論が展開されるスタイルへと発展してきた。その発展の途上に現れた中間的な形式として「3時のあなた」や「3時に会いましょう」「2時のワイドショー」などのような番組が喚起する基本的な情調は不安や同情心だった。なにやら現代のワイドショーは情より理が強調されがちになっているが本質的な論争は今なお争点は情か理かである。今やワイドショーは中世の平家物語よりは近世人の忠臣蔵になっているようだ。