ポリフォニーはポリフォニック

バフチンは日本では早くも70年代には紹介されていたが不思議に90年代に少しの間だけ流行って忘れられてしまった。やはりバフチンフロイト主義や文学の形式主義的研究なんかの例外を除くと大体の著作権ジンメル柳田国男みたいに自由に論を進めていて主張の全体像も掴みにくい。そのせいであのポリフォニィもドストエフスキー研究の仕事のなかで提示されたものと世間で一般にポリフォニィと言われているものが同一かどうかも疑わしい。一つの民族のスタンダードな行動様式の影で同居する多様な行動様式や価値観なんかをポリフォニーと呼ぶ例は置いといても一人の意識の中に同居する多数のイデオロギーポリフォニーなら作品の中の多様なイデオロギーが同等の価値をもつ状態もポリフォニーだ。さらに一つのディスクールに語り手と登場人物の気持ちが混在する例もポリフォニーだ。つまりバフチンの提示するポリフォニィは初めからポリフォニックだったのだ。このポリフォニックなポリフォニィを貫く何者かがバフチンが半生をかけて提示してきた世界観の真実なのだろう。語りの名義人の言葉に他人の意識が反映した状態、一人の人物に反映された多数
の人間の意識、一つの世界観の中に同等の価値をもった複数のイデオロギーが同居する状態など。これらの全てを重ねてみると語る人の言葉のなかに多数の意識が様々な形を採りながら同等の重みをもって共存する状態となるか。デュクローなんかはポリフォニー現象が文法の深層にも働いているとまで言っている。これは日本語には結構ある現象だ。例えば「あいつは恥ずかしいヤツだ→見ているオレが恥ずかしい」の「恥ずかしい」とか同様に「悲しい」とか「痛い」とかの感情や感覚や評価の言葉の実際の使用にはポリフォニーが見られる。また「あの人は…もう…帰った」の「もう」とか「ヤツぁお前の子供に文句を言ってきたんだ」の「きた」のように利害を反映した言葉など。そんな意味では日本語は他の言語よりは少しポリフォニックか。