イメージで動くのは何か。

毎日の観想で仏様の姿や誓いを意識するだけでも心は一定の方向に導かれてゆく。しかし実際に観想を続けていると心にイメージを描き続けていくのが驚くほど難しいことが悩ましくなる。しかもイメージが長持ちしても何か特別な手応えが得られるでもない。そりゃ修行っいうのは何かの結果を期待して行うもんでもないが時々は仏様の大きな慈悲に包まれているような感覚に入れる場合があるのだから可能ならば手応えのある観想がしたい。そこで色々と考えたり工夫したりしてみた。初めの一年間は観念の中身を追いかけるだけで精一杯だったけど特に今年の正月の14日間は余裕も出てきて細かい工夫も出来た。工夫してみると視覚的なイメージを観想している途中から心の変化が起きると普段とは違う心地よい身体感覚が現れてきるのに気づいた。この身体感覚方が意外と重要な意味をもつんぢゃないかという気持ちになった。身体感覚は言葉に変換しにくいし今は相談できる先輩もいないから他の人の実感とは比べられないが観想中の個人的な経験を言えば何やら温かい空気のようなものが体の中心を下から揺れながら立ち上り全身を包んでくるような感じがする。温かい空間の
形としては花の蕾かロウソクの炎かブランデーグラスみたいに縦長で丸い。この感覚を上手く捕まえられると無
理に意識し続けなくても簡単には消えなくなる。月輪観でも同じような状態になるし寒い夜でも印を結ぶ手が勝手に温かくなってきたりする。これが正しい現象なのかは断定できないが定から出ると頭はスッキリ体は軽く気分も大らかなので当面は現在の方法を続けてみたい。自分なりの感覚を掴めてくると以前は無意味に見えた諸先達の著書の中にある記述も大きなヒントが隠れているねを感じた。やはり達人は達人だ。たとえば三井英光師の親子のような安心のイメージとか和田仙心師の祈祷中に現れる柔らかい炎のような感覚などを今は手本に修行に励みたき所存です。