異化されるスクロフシキィ

このごろインテリ崩れのジイさんたちの退屈な独り話しに付き合わされることが多くなった。昨日もだ。70年代に東京から田舎に戻ってきた昔の文学青年や革命戦士も今やホントの話し相手も見つからないまま孤独で退屈な老年期を迎えようとしているのか。急にアカデミズムの世界から脱落してしまった当方にとっても他人事ぢゃない。確かに草深い田舎に引っ込んだ直後にゃあ利用価値もなくメタボ化してしまった膨大な特殊知識の蠢きには苦しめられていた。今でも時々知的対話に餓えている自分に気づく。んで誰も面白がりそもないロシア志学の話しでも書いてみたくなった。シクロフスキィは文学が文学になるために必要な条件は特殊な状況や設定なんかぢゃなく平凡な状況から特殊な意味を引き出す特殊な目だと言った。これが異化というものだ。この異化がみられる日本文学の代表選手は「吾輩は猫である」か。ときに大江健三郎氏はシクロフスキィを引きながら異化を平凡な状況のなかでの人間の特殊な行動により起こるものだと定義している。ある作家も大江氏の変な異化について指摘したが後に反省の弁を述べてしまった。民主主義の権化みたいな大江氏だから自ら権
威を振りか
ざすような方ではないが勝手に権威を付与され周囲にソンタクされちゃうのだ。あの作家さんは反省しなくてもOkだったのだ。この異化は日本文学での代表選手は「吾輩は猫である」か。むしろ大江氏のいう異化に近いのは江戸川乱歩横溝正史の猟奇的作品群に見いだされる世界観か。あるいは一葉の「うつせみ」の一場面だったか急に主人公の身長が急に伸びて全てが普段と違った感じに見えるという異常な体験の記述も大江氏的な異化の延長になるかもしれない。こうして異化は大江氏によって異化されてしまった。シクロフスキィからはズレにズレているが大江氏の注目する異化は確かに面白い。