70年代のDNAと新宗教

やだねえ。インテリ崩れも嫌だけどカルトっぽい新宗教も嫌だ。でも嫌なんだけど少し可哀想だから心が痛む。昔は新興宗教といっても伝統宗教民族宗教のレガシーを多少なりとも受けついていたから少しは安心できた。極端な場合には無学な老婆が始めた新宗教が古代宗教のリアルな姿をビビッドに再現するものだったりする。また昔の宗教の勧誘の勧誘は過剰な面倒見の良さに由来していた景色だったが今や効果の大きさや教義の正しさの鼓吹が動機になっているようだ。とちらも迷惑だが新宗教のソフトな上から目線が鬱陶しい!でもホントに対応に困るのは面々の自信満々な意識も支えている疑似科学神話だ。それは科学の理論体系を巧みに模倣したものだが実は科学は宗教より謙虚だということを新宗教は理解してない。新宗教も科学と同じく全てを即座に説明できるシンプルな統一理論を作ろうとするが問題なのは全てが説明できると自信満々に言えてしまう点だ。しかも自分たちの完璧な説明原理で相手を説得したり言い負かせたりすれば相手は喜んで納得してくれると思いこんでいる様子だ。けの態度!どこぞで見たことがないかと思ったら70年代の議論のスタイルだっ
たと気づく。70年代には大のオトナでも完璧な理論は事実に迫っていると信じこんでいたし論破しさえすれば相手は自分の新年を気持ちよく捨ててくれるとノヲキに期待していた。いまや理論とは基本的に情報を処理するためのツールであり真理そのものを語らないことが広く知られているし理論が事実の世界とは無関係な言葉の世界でしか成り立たないことも解っている。それなのに議論という営みや議論を支える発想だけが時代を越え担い手を変えて受け手がれているのか。元々は説得や共感を引き出すための手段が効果の確認もされないまま理論武装や論破という快楽だけが生き残ったんだ。それは70年代のDNA!いや70年代の幽霊だ!実際の科学の理論体系の物陰には数えきれないほどの謎や不確定要素や不思議が大人しく座っている。科学は近似値やブラックボックスのようなものを仮定し何とか理論の統一性を保っているのだ。我らも人生のアポリアの前では謙虚なに謙虚なに謙虚な態度でいたい。そういえばロンパなんて言い方も70年代に流行ったんだよね!