80年代は合気で上げ上げ

相手がいれば一度でいいから試してみたいことが色々ある。いつも試してみたいのは憧れの大東流合気柔術に伝わる合気上げだ。流儀によっては上げ合気とも言うらしいが80年代に少しでも武術に興味をもった人なら合気上げは太極拳発勁とともに幻の技術として憧れの対象だったはず。当時は街にも本気で発勁や合気の再現を試みる素人も普通にいた。もちろん当方も無謀な素人の一人だった。今でも誰かに頼んで合気上げの練習を助けてもらいたいんだか中学生ぢゃあるまいにバカバカしいから声に出せない。しかし昨日は違った。ついにチャンスが巡ってきた。昨日も来訪して執拗に宗教を勧誘を仕掛けてくる例の人物に悔し紛れで合気上げを試させてくれと頼んでみた。こっちかて貴重な時間を割いてまで聞きとーもない話を聞いたけてんのやろ。少しくらい埋め合わせしてくれてもカマわんやないかーってなもんです。例の教団の信者さんも概して乗りがいいから期待どお気楽にりワザを掛けさせてくれた。そしたら掛かっちゃった。何年やっても掴めなかった動作とタイミングのツボが少し解った。88年代くらいの段階では捕まれた手首の部分で相手の体重を受けることで
重心の位置をコントロールできることや筋肉をトーヌス状態に近づけてチカラを掛けると自他の動きが連動しやすくなることまでは感づいていたが今一のところで結果を出せなかった。それから合気道の暑い季節も終わっていった。それが今ころ。合気上げに代表される様々な合気は中国の大成拳でいう六面力の原理を応用することで一定程度までは実現可能だった。より具体的に言えば刻々と変わる相手の力の方向線を巧みに避けながら別の力で押してゆくこと。つまり相手に働きかける安定した表の動きの陰で臨避ける動きを臨機応変に使うと何とかなるということか。合気が常に相手の動きに即応して生まれる働きだとすれば合気道で扱う合気の概念も本質的には剣術の合気とピッタリ重なるんぢゃなかろか。これで当面はムラムラせずに行けそうだ。だが!最後に断じて言うぞ。この発見は宗教の威力のせいぢゃないぞ。