自動化と都市の身体論

自分の作った物語で試合を運ぼうとすると物語のせいで臨機応変な対応が出来ないみたいなことを某柔術家が述べている。当たり前のようだが忘れがちな真理だ。技のコンビネーションの工夫や試合のメンタル・リハーサルは確かに大切だが自在に変形しながら状況の変化に対応できる体の大切さも意識したい。都市住民は日常的に小刻みに区切られたスケジュールに従って少し先の行動予定を追いかけながら生活している。一つ一つの小さな行動の動機は個人の内側にあるというより都市システムの都合の側にあるようだ。だから?都市の体も固く動きも直線的かつ惰性的になっている。巨大なターミナル駅なんかで人間の流れを見ていると特に混雑時ぢゃなくても大多数の人々が決まった共通の動きで一つの整然とした流れを作っている。よく見ると随所に流れとは異質な動きをする少数の人がいて短い一瞬だけ周辺に流れの乱れを作っている。一部の人間は流れに乗れないのか大多数の人と違う目的をもっているのか。非常に不規則的に動いている。しかし別の人間は流れに逆らってはいないが一人だけ流れを乱しながら下流へと急いでいる。この流れや乱れを構成する人々の頭脳の内
部を除けないのは悔しいが人々
の歩き方から推察するに人々は不測の事態への想定なしに歩いているようだ。それは足の運びに出ている。みなの頭の中には自
分の想定した架空の道筋が描かれているが目の前のリアリティーな人間の動きについてはザツにしか捕らられえていないようだ。
知らない誰かに体当たりなんかしてトラブルなんか起こさないためにも周囲の人々の動きくらいには対応したらと切に思う。体当たりされた知らない誰かも心をもった生身の人間なんです。早足で歩きながら複雑に変化する状況に即応するには肩の力を抜き出来るだけ小さい歩幅で歩いた方が都合がいい。健康のためには歩幅は大きいに限るがターミナル駅では普段より少しだけ歩幅を縮めてほしい。