自分を手放せない

このごろ思う。何やら立派なポリシーをもって生きている人ほど人生の全てが裏目に出ているようにみえる。いつも自分を語りたがる一方で他人の怠惰なんかを批判している人に限って仲間もなく売り物の能力を発揮できる場も得られないばかりか日常を楽しむこともできないまま報われない人生を惨め〜な感じで過ごしている。普段から向上心やら幅広い視野やら人脈やらホンモノ志向やらを語るワリに自慢の武器は未来の開拓に役立ってもいない景色。それどころか今を楽しむツールにさえ出来てないのが情けない。これなら元からポリシーなしで惨めったらしくも気楽に明るく暮らしちゃった方が合理的とさえ思えてくるぢゃないか。ということはポリシーなんざぁ人生にとって全く有害無益なファクタだと言うべきなのか。付和雷同や優柔不断や不定見や気まぐれは芯のある生き方に勝っているのだろうか。おそらくポリシーや人生観の芯みたいなものには有効なホンモノの信念と効果的でない似非信念が設定できるんだと思う。大体において似非ポリシーというのは運用してみた結果に反省も加えずフィードバックもないまま問答無用な感じて貫かれてしまう。効果が出ようが出な
かろが当初から完成されちゃっているポリシーは十年一日のように頑として変容しないものだ。つまり自分を手放したり超えたりすることが出来ないなだ。こんなん周りのもんが往生こくばかりだ。しかしホンモノのポリシーは数多くのフィードバックを通じて改良を重ねた末に形成されていると感じる。変化しない芯の部分は変化する中からしか発見されないもので最初からアタマの中で構想できる性質のものではないんだろう。どうやら状況が変化してるのに一点も変化もないよなポリシーには疑わしいものが雑ざっていそうだ。やはり普段から変化には変化をもって応じるのが大切なんだろうと感じる。より精密に言えば刻々と変化する現実に応じて自分も変化しながら積極的に主体的に対応する行動様式。お陰様にて毎日の修法も合気道も同じ方向へと当方を導いてくれているようだ。