誤解されるタイプの新宗教

新宗教なんて概して大したもんぢゃない。今やマインドフルネスなんかが現れて宗教が身体技法や情報処理過程なんかとして研究され理解されるようになったことで逆に伝統宗教の価値が改めて評価される流れになっている。そんな時代になって伊勢屋に稲荷に犬のクソみたいな凡庸なシロモノを立派なオトナが自分のとこだけは他のと違いますだとか平気で豪語するんだから笑止千万。思えば新宗教を簡単に信じる人々は探求心が足りない。もちろん新宗教なんかに救いを求める人々は多くの場合に生きるか死ぬかの極限状態にあるのだから判断力が弱っているのも仕方ないが大体において少しばかりの不思議なな経験をしたり喜びを感じたりした段階で真理の探求をやめてしまう傾向が強い。意味ありげな言葉に感動して自分の体験を自分で考えなくなるのだ。この傾向は教祖そのものの態度にも共有されているか。多くの教祖も少し不思議な体験を繰り返したり少しばかり古典が読めたくらいのことで変な自信をもちだして思いつき同然の凡庸な宗教を立てとしまう。こんなジャンキーなもんなのに数十年程度の歴史だけで伝統宗教を凌いだかの如く薄〜い実績を誇るんだからラクでい
い。こんなん軽い奇跡は暗示誘導や姿勢矯正でも楽に得られるもんだし高尚っぽく見
える教えも地方の商売人や田舎のオバサンからでも聞けるもんだ。しかし全ての新宗教が全てウサンくさいワケぢゃない!現在は行き掛かりで新宗教の一つに数えられていながら実は信頼できる内容や歴史をもっているような是非とも後世に残したい宗教も確かにある。希代の天才が一代で中身の濃い人類史的スケールの宗教的世界観を発見したりする
のは歴史が証明してくれる。空海しかり本田親徳(ほんだちかあつ)しかりバハーウッラー(またはバハオラ)しかりカピーラしかりである。またチカラを失った伝統に独自の工夫によって新たな魂を入れた人々が打ち立てた宗教もある。例えば国柱会黒住教。 さらに元々古い伝統をもちながら社会的な事情で新宗教として出発することを選んだ宗教もある。例えば丸山教御嶽教。ことに皇教(すめらきょう)に至ってはヘタな伝統宗教より遥かに正しい伝統と長い歴史に支えられている。なんたって代々皇室の深部にいて皇室の祭祀のコアな部分を担当しきた白川家の秘伝なんだから究極の伝統宗教といえるのだ。これに比べりゃ伊勢神道なんか新宗教だし国家神道なんざぁ筆の荒びに等しい。それでも不本意ながら皇教も現実には新宗教新宗教新宗教。そうゆう立場は痛すぎる。片や一時的な思いつきで出来上がったショボいアイデア如きを正しい伝統の正しい再現だなんて自信満々に主張している自意識過剰で見識の浅い教祖どもが逆に信用されたりするのを見ると腹が立つやら悔しいやら!