法華経時間論の二重構造

お釈迦様について日蓮様が特に強調してたのは釈迦如来の本来の姿と願いを明しているのは法華経だけということか。法華経が説かれたのは一代をかけた膨大な説法の中でも最後に近いころだ。お釈迦様は法華経の中でも第16章にあたる寿量品を説く段階に至って初めて如来の寿命は無限であり命あるものを悟りの境地に導く働きを永遠に続けることが示された。法華経では前もって従来の通説を覆し全ての人は誰でも仏になれる平等な存在だと大胆に宣言しているから法華経の世界観では人間が仏になるチャンスは誰にでも永遠に用意されていることになる。んなら気が向いて悟りたくなったころにノンキに悟れば間に合いそうだが法華経では今のうちに真剣に悟りを求めなさいと呼び掛ける。これぢゃ永遠なんだか時間がないんだか何だか解らない。でも法華経の背景にある仏教の宇宙観に寄り添えば奇妙にみえる論理も奇妙にぢゃなくなる。法華経では確かに永遠の時間を語っている一方で末法というファクタを通じて制限された有限の時間区分も設定されている。仏教の宇宙論によると法界という宇宙の全体の中に無数の世界があり世界の中には様々な世間(もしくは界)
があることになっている。我らがいるのはシャバ世界で世界の内部には地獄から仏界まで十種類の界が設定され人間は人間界の住民ということになる。なお普通には輪廻転生は同一の世界の中の界の間で繰り返されるとされる。ちなみに極楽はシャバ世界とは別の世界として設定されているから人間は放っておいても極楽に転生することはない。この宇宙構造の全体には永遠の時間が流れている。その中にある様々な世界や界には独自の時有限な間が流れる[般若思想では時間を超越した空の世界と時間に支配された現象の世界という関係として表現されるか]。永遠の仏様は全ての世界の有限の時間の中に現れて命ある者を悟りに導くから仏様と命あるものとの縁は尽きないかも知れないが例えば人間の寿命にも世界の存続期間にも時間的な限度がある。もちろん個人が死に世界が終わっても人間は別の世界に生まれ変われば悟りのチャンスは用意されているかも知れないが生まれ変わって仏様に出会う確率の低さを考えたら仏様に指導を受けて悟りを開くのは今でしょという話になる。法華経に習って比喩で表現すれば一生有効の一日券を入場できる間に使いましょうという話