ホログラフィーとインドラの網

一つ一つの仏典には独自のメインテーマがある。例えば般若系なら空とか浄土系なら極楽往生とか。しかし経典を読みなれてくるとメインテーマの隙間に見え隠れする様々なサブテーマが別の経典のメインテーマだったりするのに気づいたりする。それどころか一つの経典の中には何らかの形で全ての経典のテーマが隠されていることが予感されたりする。そうゆう発見を重ねていくと全ての経典が作り上げる一つの不思議な世界も見えてくる。それは部分と全体が響き合う独特の世界観!でも考えてみれば元々仏様は一つの悟りの境地を色んな工夫で色んな相手に伝えようとしている。その記録の全てが膨大な量の経典ということになると言えるる。だから仏様の伝えたいことを掴むには各経典のメインテーマだけでなく複数の経典に共通する何かを知る必要がある。もちろん法華経なんかは経典のメインテーマそのものが仏様がホントに伝えたいことだなんて図々しいことをいう例外的なケースもあるが法華経にも般若系や護国系や浄土系それに如来蔵系の内容がオールインワンになっている。つまり主催者側の気持ちで語れば法華経だけは他の全ての経典がバラでアピールしている全て
のテーマをワンストップで引
き受け
ているんだから法華経は凄い。こんなん他の経典ぢゃ無理だろということになる。確かに主催者側の言うことは正しげだ。実用的な意味では間違いなく法華経はコンビニ的に便利だ。でもワンストップにされちゃうと全ての経典が構成する壮大な世界観は楽しめない。なにしろバラバラのフラグメント(断片)がなくちゃあコンステレーション(星座化)の魅力も何も成り立たない。それより何より断片や部分の中から全体が見えるという世界観は単に仏教思想という巨大システムの姿だけでなく人間が体験する世界の真実の姿だという華厳のテーマが見えなくなってしまう。この世界観はホログラフィック・パラダイムとかいうものに近いか。それは仏教ではインドラの網と呼ばれる。インドラの網とは全ての結び目に付いた一つ一つの水晶の玉に他の全ての玉が映り合っている網のことだ。世界がインドラの網だなんて一見すると奇妙な話だが一人の人間に多くの人との関係や複雑な社会背景なんかが反映しているのを考えればインドラの網も全面的に荒唐無稽とは言えない。こんな感じの妙な世界が観えてしまうと様々な状況を多角的に捉えることが可能になるし
現実の生活も色んな意味で自在になりだす。例えば不本意な立場の向こう側にオイシイ〜チャンスが見えたりするし半径50センチの範囲から世間のダイナミックな動きが見えちゃったりもする。もちろん仏教としては世界観とか知恵とかより悟りの方が大事な
んだけど華厳的な世界観から出てくるのは紛れもなく仏様が多種多様な立場の人々を導くための広大な知恵なんだから世界観や知恵なんか無意味だとは言いきれない。そりゃあ確かに金剛般若経法華経に書いてあるとおり真実が解れは方便なんて捨てちゃえというのも解るけど大体みんな悟りの途中なんだし法華経で真理を知っても真理が体得できなきゃ意味がないんだし仏様の知恵は悟りと表裏一体なんだから悟りに至るまでの人間なら知恵の源泉に迫ってみるのも悪くないじゃん。