我が恐れしこと割れに臨めり

怨憎会苦というのもあるけど嫌悪会苦みたいなのも生きてりゃ逃れられないものか。すっかり忘れていたのに何十年ぶりに会いたくない野郎に出くわして嫌な記憶が蘇ったりする。そんな日の翌日だというのに今日は例の押しの強い宗教勧誘野郎が夕方に来やがった。経験的に類似した嫌な出来事が一定期間に集中することは意外に多いよな気がする。もしや朝の修法で結界法をサボりがちなせいなのかなとか一人で勝手に弱気になってしまう。逆に普段は特に用心しなくても毎日を無事に過ごせ一日を穏やかに終われているのは無数の偶然が絶妙に重なりあってくれた結界なのだと思うと自然に仏様に手を合わせたくもなる。こんな経験をデジャヴュみたいに懲りずに繰り返すのも馬鹿馬鹿しいけど今日の教訓も少し先には軽く忘れてしまい同じ経験と後悔を繰り返すのか。やだねえ。野郎は一人で自分たちの宗教の凄さを語る。臨終を迎えた信者の遺体が軽く美しくなるとか熱弁する。確かに日蓮様の著作には特に人の臨終の相について説いた文章がある。しかし鎌倉時代当時には光明真言土砂加持法のように遺体を柔らげる修法や死を前にした人の表情を観察しながら進め
られる浄
土門の臨終作法など死に行く人に美しい最後を迎えさせるための作法が宗派を越えてポピュラーに広がりつつあった。だから宗祖日蓮様の著述は独自の特殊な主張だったとも言えそうだが人生最後の心状態が遺体の相に反映するという一つの時代の普通の一般論だったという推察も捨てられない。現代でも密教の修法を受けて臨終を迎えた人が穏やかな表情で息を引き取るという話を聞くこともある。鎌倉時代を語るなら少しくらい鎌倉時代の空気そのものに関心をもっても悪くないと感じるのだが。ああナセだ。ナセ講釈を始める前に自分の目で謙虚に歴史に向き合おうとしないんだろう。