易はRPG化できるか

ああ朱子学に出会うのが遅すぎたと一人で悔しがっているが初期の朱子学なんていう世の中で最も退屈な世界に魅せられちゃうと話せる相手が極度に減るのは間違いない。例えば朱子本人より朱子に影響した先輩の張載が実は面白いとかの話はゼッタイに誰も面白がらなさそうだ。これが歴史や音楽や政治の話ならまだしも儒学の話題はない!こうなると仏教やら刺皮動物やらの方が遥かにマシに見えてくるから皮肉だ。んなら話が出来るのは儒学者に限定されてくる。さりとて周辺に儒学者なんていないし出来れば儒学者なんかとは話したくないから必然的に儒学については話し相手がいなくなる。まぁ朱子学の目的は儒学談義ぢゃなくて世間や宇宙の仕組みを知るところにあるんだから朱子学やっても話題は特に変わらないし朱子学そのものの話題さえ封印すれば特に今まで以上のドン引きは防げそうだ。実際に朱子学やったら今まで興味をもっていたことの面白さが爆発的に巨体化した。ついでに今までは特に面白くなかったネタにも手が伸びる。なるほどなるほど江戸時代の儒学者たちが実は洋学にも凝っていて地動説なんかも早くから受容していたのも宇宙の仕組みを知りたいとい
儒学の性質からすると普通に納得できる。どうだ朱子学やりたくなるだろって気づけば自分から
ドン引きを誘っている。んで当方は朱子学を引っ込めて易に凝ることになった。でも占いに凝っているという話ぢゃない。もち
ろん易は占いにも利用されているが頻繁に現れる定番のパターンのメニューとして利用されていた[だから儒学者や兵法家は普段から易でシミュレーションを重ねていた]。儒学では歴史や経済や自然界などとの研究から人間行動や自然現象の基本的な変化パターンを把握しようとするが儒学にとって易は膨大な経験なしに複雑怪奇に変化を続ける現実の動きを疑似体験しながら学習てきる強力なツールになっていると言ってよい。でも易経は漢文は難しいし内容が謎めいているし表現が退屈だし正直なところ今までは敬遠してテキトーに読んでいた。でも色んな「あるある」だと思ってよんだら意外に退屈しなかった。実は視点を変えて読んだら易は聖書と同じくらいダメになるのだった。多くの人々が聖書の世界に魅了される理由の一つは聖書の中に様々な震源模様が描かれているからで実際に聖書から人間行動のパターンを学んだという声も聞いた。特に福音書や旧約は強烈に人の心を引き付けてくる。それに比べて易と来た話は同じ機能がありながら楽しくもないし感動もない。だいたい易には慰めというものがない。だから慰めの部分だけは諦めるとして易をあるある的
にドラマ化もしくはRPG化して面白くしてみたらと思いついた。易は卦だけでも64種もあるし棒ごとに考えるとパターンは卦の6倍になるから場面を考えるだけでも往生だが自分で納得できるレベルてなら逆に楽しい作業になりそうだ。でも易の話題も充分ドン引きものか。