待っているのはノアの泥舟だった

現代型の宗教が感動的体験や乗り乗りなパブリック・スピーキングや疑似コミュニティなんかを提供しながら勢力を保持もしくは拡大しているとしたら逆に実社会では感動も乗りも仲間も得られそうもないと実感する相当数の人々がいるという予感を誘う。そうだとすると一定数の人々にとって今の世間は恐ろしく退屈な感じの場所ということにもなる。どうも実際に孤独とか相互不信とかコミュニティの崩壊とか現代社会は人間の疎外に関係する諸問題を抱えているのは間違いなさそうだ。確かに宗教コミュニティの内部には普通の世間とは少し違う人間どうしの積極的な関わりみたいなものがある。これが宗教に特有の暑苦しさにもなってるんだろうが裏を返せば人間が暑苦しいくらいに関わり合える場所は今や暑苦しすぎる悪質宗教くらいにしか残ってないという落ちか。そりゃ悲しすぎる。どうやら宗教には暑苦しくされたい人々も暑苦しくしたい人々も居場所を求めて集まってくる。実社会では自信なさげな人々も宗教が提供する擬似的な日常空間では安心して自信満々に振る舞ったり頼りない自分を開示したりできる。それでバランスが取れちゃうから世の中は上手く出来ている
。ついてにコミュニティ内で情報や知識や知恵みたいなものが得られるんだから言うことなしか。でも大々的に人々を集めヤツらに随いていくと待っているのは大抵がノアの方舟ぢゃなく案の定の悪質な泥舟だったりしてショックは強烈。悪質宗教というヤツが困るのは人の人生の目的を勝手に決めたてしまうし世間では通用しない変な常識を人に植え付けちゃうとこか。ホントなら人は色んな経験の中で生き方を学んだら何をするかは他人の被害に配慮しながら場面場面で何でも自由に決めればいいのだが…その自由を巧みに奪うのも悪質宗教なんだよね。やだねえ。おそらく生活が便利になるほど人は自分一人だけでも不自由のない生活が営めるようになる。それと同時に他人の助けも他人からの介入も他人に対する責任も想定しなくて済むようにもなるに違いない。もしや新しい世代が何かにつけて大丈夫ですという言葉を異様なまでに多用する現象にも現代的な無縁社会の空気が反映しているのか。それはそれで新しい人間関係の形だとして割りきることも可能なんだけど成り行きを放っとくと人間にとっての快い疎外や好都合な分断を前提にしたよな嫌〜な制度やシステムが独り歩
きしだすかも。死にたくないのに死にたくなりそだ。んで助けが必要な人も誰かを助けたい人も今より肩身が狭くなる。でも逃げる先がない。バカバカバカぁ〜ん。