面白い番組は神秘の扉の向こう側に?

一代で巨万の富を集め大尽遊びに湯水のように金を使った末に謎の変死を遂げた紀州ドンファン氏が最後に残した秘密の金庫に入っていたのが古い背広に空の封筒だけだったたんて話を聞くと浮き世の無常と悲哀を感じる。実際に旧家の開かずの金庫なんかを開いてみたら中にゃ金銀財宝も莫大な現金も入っていないというのが相場なようだ。んな事情は解っているのに抵抗しても抵抗しても激しく引き込まれるのが金庫開け番組だ。これに似た世界としては池の水抜きに埋蔵金に洞窟探検。ついでに無理矢理で警察24時。最近のテレビの人気者に依存しきった安易すぎる企画の数々に我らテレビっ子がヘキエキしている今だ。金庫開けに代表されるテレビの新しい傾向は我らの希望の光だ。この表面的には特に仕掛けも捻りもなく安易にしか見えない企画。二回目からは早々にマンネリ化しそうな上に経過も結末も見る前から予見できそな展開ばかりなのに我らをテレビの前に引き寄せるのは何かの独特の魔力が作用のせいという他ない。その魔力とは何か?おそらくリアルな謎との出会いだ。今やテレビの視聴者は気を持たせる作為的な演出による謎の押し売りに飽き飽きしているんぢゃないか。まるでテレビは本物の謎なんて一つもないんだなんて言いたいみたいにさえ感じる。しかし実は世界は未知の領域に通じる神秘のベールや謎の扉だらけだ。ただ全て解りきったような顔で暮らしている我らが自分の興味のない色んなものや変則的に動く微妙な領域を無視しておいて勝手に退屈しているだけだ。だから自分たちが色んなものや領域を無視していること自体を見事に忘れている。いつも見慣れた景観。その向こうには無視されたり忘れ去られたりした領域が隠されている。だから普通の景観は実は謎の扉なのだが人の目には扉そのものが見えない。そうゆう意味で番組がホントに引き出してくれるのはベールの向こう側への期待以上にベールそのもの出現による感動なのだ。それを意識したとき我々はベールそのものや忘れていた自分たちの姿に気づく。どうせ特に変わったものなんて何も出ちゃこないと解っている場合でも最後まで画面から目が離れないのは我々がベールそのものを見て感動し驚愕していたからなんぢゃないだろうか。そうだ!ゴミ屋敷もだ。ゴミは一見すると扉の向こうの驚愕の景観だと感じられそうだが実はゴミそのものも魅惑のベールになっている。ゴミが撤去されたときに目にするのは単なる普通の部屋の景色だというのも解りきっているのに思わず見てしまうのは我々がホントに見ているのが扉の向こう側なんぢゃなくて扉そのものだからなんだろう。もし我々が解りき
ったものの先への関心を失ってしまったとき我々は誰よりも退屈な人間になるのかも知れない。この退屈さは古今東西の知識を集めても癒せないだろう。なぜなら本当の知的快楽は知識よりも疑問の中に宿るからだ。だから人の知識が一つ増えただけなら単に退屈さが一つ増えることになるだけだ。そんな退屈な毎日を忘れるためには莫大なマネーを費やして片時も休むことなく他人が提供してくれる快楽を追い続けることだ。そんなマネーがないなら子供のころの何も知らない自分に戻って未知の領域に改めて向き合うしかない。