常にイロモノはマルチ・チャンネルだ

そもそも朱子学は周子や程子ら先輩たちの打ち立てた儒学の新しい波に乗って成立したものだった。それまでの儒学四書五経なんかの基本文献のみから真理を学ぼうとしていたのに対して宋代に台頭してきた儒学のニューウエーブは目の前の現実やら別の思想体系やら自分の心の動きやらからも何かを学ぶことを試みた。別の言い方をすれば書物よりも自分の体験や感覚を通じて古典を正確に理解しようとしたのが儒学のニューウエーブだった。だから朱子学は古典の表現が時代感覚に合わなければ迷わず別の表現を探しに行った。それが仏教用語の中から見つかれば積極的に利用した。ニューウエーブにとって大切だったのは知識の保存や再現ではなく古典に記録された境地の現実的な体得の方だったと捉えられそうだ。だから決められた情報源(ネタ元)以外から核心的な情報を得ようとした時点で朱子学がイロモノ扱いされるのも当然だった。多くの場合で学問的なイロモノは朱子学と同じ傾向をもっている。いわゆる正統派にとっては自分たちの畑を出たり変えたり往来したりするのは御法度で基本的に伝統的に守られときた畑の範囲内で議論や探求を進めること自体が
目的になっている。もう事実の発見も真理への到達も何もない。目的は共有されるルールの中で伝統の知的ゲームをプレイすることだけだ。んで外野に耳を傾けるのはイロモノになっちゃう。センチュウを利用してガンを発見する技術を発見したのは胃潰瘍の専門家だったとか。それまでにガン細胞に集まるというセンチュウの振る舞いにムシ屋さんぢゃない胃ガンの専門家は一人も関心やギモンをもたなかったそうな。また今まで全く解けなかった朝鮮語の某方言のアクセントのナゾをラテン語の基本知識をもつ人によって一発で解かれちゃったという話もある。業界には朝鮮語ラテン語も知っている人くらい山ほどいたろうに誰も畑違いのネタには手を出そうとしなかったのか。業界ではナゾの解明という成果だけは高く評価されていても発見に不可欠だったイロモノ的な発想の意義については今なお放置されているようだ。どうやら現実的には正統派の知識を体得していながら偉くなる前からイロモノに手を出したばかりに干される人間も少なくないそうな。朱子学は今なおイロモノで近世でさえ世間で嫌われているほどの権威もなかったのだね。ホントに朱子学にパワーなんかあっ
たのですか!?そもそも朱子学は正統派だったんでしょーか?ときにイロモノと儒学の間には深くて複雑な関係が潜んでいた。現代ではイロモノといえば講談や落語以外の漫才や漫談や手品なんかの園芸だし場合によっては特に下品なネタや芸だけに限ってイロモノと言ったりするが古くは講談が本筋の園芸で実は落語もイロモノに分類されていたそうな。なせかと言うと講談には敵討ちやら忠義者やらと庶民の道徳観念を育てるような内容のネタが主流で講談師も結果的に道徳教育者の一種みたいな地位にあったという噂。つまり講談師は儒学の先生に近かったか。それに対して落語家なんざぁ面白い話をしていりゃよかったんでイロモノということになる。