新しいマカレンコ:並行教育から個人化戦略へ

教育理論といえば大昔はペスタロッチ。少し前ならマカレンコかクルプツカヤ。そして現代ではシュタイナーが流行中のようだ。当方としてはマルクス主義ぢゃないがマカレンコが今なお凄い可能性を持っていると思っている。マカレンコのツボは育てるべき能力の中心に社会に役立つ能力を追いた点と教育法の土台に学習共同体の形成を設定したところだ。あるいは学習共同体の形成の過程で不可欠になる並行教育をツボとしてプラスできるかも知れない。この点については宇宙という大きな働きの中で人間が共同体を作っているというシュタイナー的な理想とも一脈通しる部分の存在も見逃せない。ただしシュタイナーが最も重視したのは集団意識や社会性ではなく個人の感覚や表現力だった。シュタイナーにしてみれば豊かな感覚から生まれた他人に対する思いやりを社会性の源泉としたのが役割分担という実践経験を社会性の養成に結び付けたマカレンコの態度と決定的に違いうところかと言えようか。ただ内面重視か外面重視かの違いはあるが両者は共にクラスを一つの共同体として捉えている。しかも色んな理由から日本の教育で見過ごされ置き去りにされ素通りされ続けた要素
がまさにシュタイナーやマカレンコが共有する個性の有機的な結合に基づく共同体だと感じられる。日本の教育者が学習共同体の構築に消極的なのは必ずしも問題に対して無関心なためというより学習共同体を自然に形成するメカニズムの働きへの強い信頼が前提になっているためのようだ。しかし最大の要因は自己の開示に消極的な日本人に特有な性質だろう。だからなのか日本では意外なことに部活やクラスでの付き合いが長い仲間の関心事や特技を全く知らないなんて状況も珍しくない。ときに当方は入院時代に大学で講義をする機会を借りて面白半分なイタズラ実験をしてみたことがある。ターゲットは20人くらいの学生。一通り宗教史の話をした後で一人一人の関心事についての短い対話をしてみた。講義の後で聞いてみると仲間の意外な側面に気づいた人が多く人間関係を広げたくなったという人も出た。別の機会に各人の関心事を中心にした意見交換を交えて講義をすると多様な見方が刺激になって取り扱う内容への関心が広がったとか内容が印象深く受け止められたので記憶に残ったという感想が得られた。多様な声の利用は学習共同体の形成の他に学習意欲の刺激にもな
ったようだ。やはり個性の利用は時間を食うけど意外に効率はいいと結論したい。こうなると教室にはマカレンコやシュタイナーの他にバ
フチンま招く必要があるか。