操作する心を突き抜ける

密教の基本的な作法も非公式かつ総体的な形の指導を受けた程度だったから畏れ多くて図々しく祈祷なんて出来ない。しかし祈願くらいは許されるかと勝手に決め込んで何かあれば自他の願いの成就を祈っている。特に誰か困っている人がいると思わず祈りたくなる。以前は祈ってみても手応えがない。あったとしても考えようで何とでも解釈できるレベルのものだった。それが最近になって状況は一気に変わり正しく祈れば明らかに顕れ正しくなければ何も顕れないようになった。以前と何が違ってきたかと言えば第一に祈るときのペースが解ってきたことだが第二には祈るに当たっては必ず世界全体の変容する過程の中に自他の願いを置くゃうになったことだった。こうすると対象へのコントロールや支配といった不純な意図が祈りに入り込みにくくなるし感応も明確で早い。とにかく自分が現実を変えてやるぞ操作してやるぞという付け上がった心は基本的に祈りの邪魔になるようだ。これに気付き対処できるまでにゃあ長い時間と工夫があったが今やっと入り口だ。