動物は地図を持たない

今日も大脳の介入で朝から気疲れするようだ。やはり大脳の[言語化による]情報処理の効率の悪さは特に楽器の演奏とか体さばきなんかの目の前の課題を相手にしている場面に顕著に現れる。記憶の管理や物の探索も言語を媒介にしない情報処理は手順が本人に見えないのが少し気持ち悪いけど面倒な作業が全て省略されるせいか無駄なく気持ちよく事が進むんだから面白い。人間の大脳による情報処理は端的に言えば思い込みを主軸にした営みだ。これに対して野生動物なんかは人間より人工知能に似た原理で情報を処理しているようだ。動物は主に餌のあるはずの場所を探すのではなく餌がありそな場所を探す。人間は地図に代表される知識を頼るが動物は感覚で捉える手がかりや道しるべに頼る。思い込みによる人間型の情報処理は通常なら極めて効率的だが状況が少しでも変則的になると極度に頼りなく非効率なものになる。人間型の情報処理が役に立たないとき大脳の縛りを脱し現実と直接的に対面するのは可能なんだろうか。どうも人間が大脳で情報を処理しているとき意識は身体の任意の一ヶ所の感覚だけに集中されるようだ。これを逆用して普通には流動的に遷
移している身体感覚の中心領域を流動するがままに放置してみることで意識も少しは自由になれそうだ。身体感覚は確かに放置しておくと形を変え大きさを変え自由に動き広がり分かれ集まる。色々あるが意識の自由を取り戻すには身体感覚は狭い領域に固定させるのだけは避けておく必要があるようだ。