敵を倒すと必ず出てくる次の敵

自分の言うことを聞いちゃくれない厄介な心の動きも観によって細かく細かく観察すると意外と楽チンに把握し先回りの対応ができる。密教の観想の中で心の毒や汚れや鬼が消えていくとこを繰り返しイメージしていくとホントに無益な心の魔境が解体されていく。工夫を繰り返しながら修行しているうちに自分を縛っていた不可解な苛立ちの正体や知らず知らず大切に抱え込んでいた迷惑なポリシーなんかの本質もリアルに把握できるようになった。ついでに他人の迷惑な振舞いや受け入れがたい価値観の背景にある当人なりの正義や善意や心の痛みも読み取れるようになった。こうなるってぇと縛りも武装もなくなった分だけ心もラクになるのだが必死で越えた山の向こうにゃ前より高い山があるということで今度は相手の迷惑行為の中の善意に対応しきれない自分に苛立ってしまう。そればかりか相手を教化してやるぞという高慢なイロケの心が顔を出してくる。それでいて相手に腹が立つは自分は嫌になるわ。うぅむ。この唐変木の野郎の見当外れな気遣いに答える方法が解らないぞ。ついでに迷惑な了見を叩き直してやりたいけど方便が見つからないからイライラ。その場を脱出し
たさに非道い対応をしちゃう自分のバカバカ!本音を言えば昨日あたりは外出するのも嫌になっていた。これぢゃダメぢゃん。確かに修行のせいで自分の苛立
ちの正体は見抜けてるんだから何かの進歩はあったんだけど結局は今日も煩悩に縛られてるという意味ぢゃあ何も進歩してないのと同じような気もする。経験からすれば対応の仕方が判りさえすれば頓珍漢で面倒くさいな相手を前にしようが極めて穏やに振舞えるはずたと解っちゃいるんだけど過ぎたもなぁ取り戻せないし今は仕方ないから改めて観を深め観想を極めていこう。どう考えても思い通りにならない相手に慈悲深く接しなきゃ慈悲観の修行の意味がない。仏様ぁ相手の気持ちを受け止められる度量を!