やはり無情と無常は教会で痛感した。

かつて遠い遠い昔に厄介になっていたキリスト教会が改装の上リニューアル・オープンすることになって大量の宗教書が明るく無慈悲に処分される運びになったそうな。歴代の信徒が少しずつ蓄積してきた信仰上の財産も時代から取り残されニーズを失ってしまえば単なる古紙として扱われるのも致し方ないけど処分されていく教会の歴史そのものを横目にイベントの計画の話に夢中になっているメンバー言葉には古びた本たちを巡る想いや心の痛みなんか微塵も見られない。んで手に持てる限りの祈りに関する本を哀惜の念と共に貰ってきた。いつもいつもイベントの算段ばかりしている最近の教会に身を置くと自分が何をしに来ているのか解らなくなるような空虚さを感じる。そりゃねぇイベントだって何かの癒しや救いや慰めくらいにゃなるかも知れないけど何か真ん中にある引力みたいなものが全く見えないのが痛い。寺院仏教が葬式仏教といわれ存在意義そのものが否定的に論じられるようになって久しいけどキリスト教だって一部は単なるイベント空間に成り下がっているようにしか見えない。なんか心の痛みとか救いの喜びとか圧倒的に大きな存在に対する畏敬の気持ちとかの
居場所なんか教会には不要なのか。そうゆう意味での引力がないならボランティアに熱心な教会だってイベントばかりの教会とドッコイだ。仏教という外野から見ている当方の方の心が勝手に泣いている。も一度コリント書簡の愛についての箇条書きでも復習してほしい。愛は高ぶらない無作法をしにい…南〜無〜。