悪質宗教が当たり前だった時代

お宝鑑定は相変わらず出るのが金持ちばかりだから意外性ゼロで面白くない。んで急にキリスト教の話。ここんとこ色々な経緯もあってプロテスタント系のキリスト教書を激読みし爆読みする流れになった。んで片っ端から読んでみたら昭和40年代が終わるころまでのプロテスタント教会が他の宗教に向けてた眼差しというのが今のように宗教間の交流や相互理解が進んだ状況からすれば悲しくなるほどの悪意と軽蔑と拒絶意識に満ちていたことを改めて確認した。それどころぢゃない。今の教会の平均的な態度は解らないけどプロテスタント教会は少し前まで他の宗教を撲滅すべき悪みたいに扱っていて日○○宗の折○教典みたいなタイプの異教攻略本も色々と読まれていたようだった。最近になって当方が悩まされている仏教系の悪質宗教の独善性には不愉快なカルト性を感じていたんだけに考えてみりゃあ数十年前までは普通のキリスト教会だって仏壇を焼き捨てるとか伝統行事を拒絶するとか友達を他の宗教から離脱させるとかいう悪質宗教と特に変わらない過激な態度を普通のクリスチャンに普通に求めていたんだと思ったら軽い戦慄なんかを感じたりした。同時に当方も悪質宗
教を厄介がってはいるけど実は団体が創設された時期には排他的宗教というのは別に悪質でもカルトでもなかったのかもしれないと厳しく反省した。そうなると当時の生長の家とかバハイ教なんかの方が宗教としては驚くほど特殊で革命的だったんだね。んならムガール朝のアクバル大帝の発案したアッディーン・イッラーなんて世界史的にも宗教史的にも画期的な宗教だよね。でも排他的な宗教は怖いわぁ。せめて信じたいのは聖ポーロがローマ書簡の中で述べたように異教を信じている人々も[人としては]クリスチャンの友であるという感覚を今の教会も大切にしていてくれることだ。