ジャンプする

C・ユングとR・ヴィルヘルムが編集した太乙金華宗旨のドイツ語訳に寄せられたC・ユングの序文の中に引用されていた心印経の一節は汝は沈黙して朝に飛躍せよと和訳されている。どうやらユングらによるドイツ語訳でも雰囲気は同じようだ。この部分の原文は黙朝上帝となっているから正直に言えばヴィルヘルムらの訳はホントにホントかなぁと疑いたくなる。例えば原文にある朝という字には対面するという意味もあるから黙朝上帝は静かに最高神に意識を向けるとも読める。もちろん偉い人の訳なんだし特に文句も出てないなら間違いないのだろうけどギモンは消えない。さて心印経は紙一枚に収まるコンパクトな道教経典だが修行の過程で経験される様々な現象や実感を知るための良質なネタ本だと思う。ユングらの理解に従うとすれば心印経の黙朝上帝の部分は人間の能力が拡張される様子を端的に描いた箇所だということになる。基本的に人間の能力は日々コンスタントかつ着実に伸びてゆくとは限らない。むしろ長い停滞の中で能力が突如として飛躍的な伸びを見せる場合が意外に普通にある。しかも飛躍的な能力の拡大が起きる場合には能力の質そのものの変化や対応領
域の爆発的な広がりが見られることも少なくない。最近の当方も六弦琴でスティーヴ・ハウのムード・フォー・ア・デイにローテク版ながら挑戦できるようになった。ローテク版でも挑戦できるようになるまでには少なくとも5つの飛躍を経験した。まず小指の活用が判ったことでメロディの再現が可能になり次いでAとBのコードを多用できてくると弾けそな曲が飛躍的に増えた。次にA、Am、Dm、Cコードの複数の押さえ方に慣れてきたために広い音域の曲にも無理なく挑みたくなってきた。そして極め付きは右手の三本の指の使い方を工夫して少し複雑な曲にも手を出すようになった。これに加えて海岸で知らないオジサンに習った秘技・鷹の爪で弦を押さえる指の移動が格段に楽になったことも大きい。んな景色でジャンルを問わず修行には飛躍が付き物だ。そして飛躍こそが修行の楽しさになる。ただし飛躍は目的ではないし修行の道は極めきれないのは当たり前。大切なのは人間には自分の知らないポテンシャルがあることを信じることなのかも。ちなみに当方が開発したローテク版ではコードはAmで音符の密度も原曲の半分ということで極度に情けなく
も恥ずかしい。