まだ正しさなんか信じている

朱子学の発想のツボを調べていたが結論として到達したのは世の中には善や悪はあるかも知れないが正しさの問題が入り込む隙間なんか全くないということだった。存在しているのは正しさの問題ぢゃなく自他の利益を助ける行動と損なう行動の区分だけだ。まぁ日本では他人の利益を損なう行動そのものではなく損ないそうな気配を漂わす行動を正しくない行動と考えるから面倒だ。なんせ正しくないとれる行動がホントに他人様の利害を揺さぶるかどうかという現実的効果は確かめられていないまま規範になっている。ましてや他人の不快感を誘発する恐れのあるとされる行為おや。少なくとも儒学は行為そのもの種類ではなく反省の有無で人間の道徳心を云々するものだ。だから反省や修正を許さない日本型の正義は儒学としては怪しい。んなことを考えついた時だったから悪かったのか駅で早めに電話を出して耳に当てて歩いていると歩きながらの電話はダメだよと通りすがりの説教。見れば今ぢゃ没落しきったくせに昔の栄光の上に安住している旧大ブルジョワの奥様だった。とにかく混雑するなか通りすがりの説教は危険なんで遠慮されたい旨を伝えよう手した。もちろん後で何
を言われても非は認め非礼も詫び行いも正すことは伝えたつも
りだが屁理屈だ不遜だ詭弁だと言われアナタは正しくないと言われる。ああ正しさなんてものを今なお信じている人間がザラにいるのを忘れていた。ホントは道徳に細かい儒学でさえ正しさは型どおりの行動のことぢゃない。基本的に儒学でいう正しさとは均衡のとれた状態を意味しており端的に言えば多面的な利害関係への対応力のことだった。だから正しさは他人に求める行動規範ではなく自分が追求してゆく柔軟性だ。あ〜あ規範的行動から逸脱しないことを道徳だと思い込んでいる人間が今なお大手を振って歩いていることを考えないで異議を申し立てたのは大きな間違いだった。だいたい正しさを語る人間は根にもつタイプが多いんだよね。あ〜あ〜申し訳ないですねえ。はいはい。