あえて非常識な魔術の世界に分け入る!

ただ呪文を唱えれば奇跡が起こり全てが思い通りになるというイメージは本物の魔術や密教の経験を反映しているのだろうか。どうやら実際に呪文や真言を唱えてみると間違いなく相応の効果は現れるようだが魔術を巡るイメージは正しくないようだ。この正しくないイメージが魔術の可能性を否定する根拠になっているのが悲しい。まず多くの本にも書かれているように呪文の効果には副作用も伴うから全てが思い通りにはならないらしい。例えば即効性が自慢の日蓮系の諸宗教なら信仰が深まるにつれて現れる“業”と呼ばれる多様な試練を想定されている。また個人的な体験に即して言うなら呪文の効果は即座に現れない。結果は常に期待通りには現れない。そもそも呪文を唱えるだけでは何も起こらない。なにしろマーフィー氏や谷口雅春氏はイメージや言葉の習慣などによる運命改善を薦めているくらいで今ぢゃ呪文なんかに開運を期待するよな人も少ないだろう。そして確かに呪文の効果には土台になる特別な意識的態度や身体感覚が必要になるようだ。まず必要な意識的態度とは物凄く単純で現在の状況を多面的に読み取ろうとする発想。もしくは与えられた条件や手段を最大
限に利用できる能力。あるいは全ての状況が人間の気持ち
に対応して変化するという特殊なコスモロジー。つまり生産的なビジョンだ。次に土台となる身体感覚も単純なものでリラックスしたときの快い浮遊感だ。これらはマーフィーらが指摘している要件と全く同じだ。思えば自分の身の周りには抜群の才能にも有利な条件にも恵まれ誰よりも真剣に努力を続けていながら不満だらけで不如意な日々を送っている仲間が山ほどいるが面々は決まって人についても物についても状況についても全て自分の気に食わないものは全て無価値で無意味なものとして簡単に見下し見限ってしまう。だから面々は自分の街や職場や知り合いなど自分を取り巻く環境を妙に激しく嫌悪している。なんか悲しい。もちろん価値あるものと無価値なものとを仕分けする態度そのものは魔術よりゃ遥かに常識的で現実的だろう。なんたって魔術は普通普通なら見捨てたり見限ったりしたくなる無価値なものから巨大なチカラを引き出そうとするんだから究極の非常識な営みと言える。逆は必ずしも真ぢゃないけど諦めの早い常識より可能性に執着する魔術の方が幸せそうに見える。んならマーフィー式にイメージで行けば効率的みたいだし呪文なんか今どきバカバカしい
。でも呪文には呪文の
利点はあった。毎日やっているとイメージが安定し鮮明化するし操作する気持ちが顔を出さなくなるし内面の変化に敏感になれる。