悪質宗教が悪質な理由

久しぶりに悪質宗教が来訪。もちろん嬉しくない。いつも訪ねて来ては集会に出ないかと誘ってくるけど最後は営業活動に引き込もうという魂胆がダメなタヌキの尻尾みたいに見えているぞ。つい最近まで悪質宗教が悪質なのは排他的だからだと気楽に思っていた。だが実は間違っていたようだ。例えば現代人が大好きな鎌倉仏教も意外と排他的で例えば浄土真宗日蓮宗だけでなく曹洞宗でさえ正式には他の宗派の兼学を勧めてない。だからって鎌倉仏教が悪質だとは誰も言わない。同じようにプロテスタントだって悪質宗教とは言えない。んぢゃ何か悪質なのかというと結局は信者を営業活動が中心になる教団への奉仕で忙殺させてしまうってぇとこだ。面々自身も気づいちゃいないけど悪質宗教の主要にして実質的な活動は普通の意味での信仰ぢゃなくて普通の意味での営業になっている。悪質宗教も建前としては他の宗教と同じく信仰心の証になる様々な行動を設定しているが必ず巧みな論理の差し替えを利用してし異臭的には営業活動のみが最大の善行であり信仰心の表現だという観念を信者に植え付けていく。やっぱり道は色々あるという方が人間の知恵としては健全で上質だと
感じるけど大体の宗教が悪質化するときは元々は色々あったはずの道を一つだけにしろとか言い出して過激な営業とか隠微な引きこもりとかを始めるんだよね。