アフリカンなフィギュアは許されないのか

プラダのキャラのデザインが黒人差別的だってんで米国の活動家が激怒。話題の意匠は確かに米国の白人文化の伝統の中ぢゃアフリカ系米国人を侮蔑する符号として利用されていたのは明らかだ。ただし活動家が任意のデザインが米国でブラック・フェイスと呼ばれる典型的な意匠に似ていることを理由に機械的に激怒したのは米国の黒人には間違いなく差別になるがアフリカンまで含めた全黒人の声を代弁するつもりだったなら少しギモンがある。かつて日本でもダッコちゃんやらカルピスのキャラやらが物議を醸したような。この騒動が起きたときギモンだったのは黒人キャラは問答無用でNGなのか。例えばアフリカンなゲージツ家が自らデザインしたアフリカンなキャラもダメなのかというギモン。も一つのギモンは日本でも米国でも黒人キャラ問題は完全に第三者の間で議論されていてアフリカの人々が全く置いてきぼりになっている不自然さへのギモンだった。言い方を替えてみれば2つのギモンの後ろにはアフリカンな美意識に照らした検証なしに米国の文化的価値観だけでキャラの意匠の意味を評価したり排斥したりする態度そのものにも米国に特有のパターナリズムな思い
上がりの匂いもする。いわゆるブラック・フェイスはアフリカの人々にとってホントに醜いのか。もしかしてカワイイだったりする可能性は考えられないのか。もちろん西欧でのブラック・フェイスは活動家の言うとおりイケませんが答えはアフリカに出してもらいたい。。