日本語の接頭辞パラの用法について

今日は陛下の誕生日。平成という時代を自ら送り出すことになった陛下の言葉には深くて複雑な御心境が滲み出ていて強烈な感銘を受けた。皇室を憎悪し元号なんかぢゃ時代は区切れないとか嫌味に豪語する反日日本人のアタマの中に流れる時間は無味乾燥なクロノス的時間だけなんだろうけど。人々には誰かの人生や一つの営みを基準に共有される主観的な時間がある。お父さんの定年とか先輩の帰郷とか生身の人間が把握する時間は時計のような機械的な時間ぢゃなく常に有機的な色合いを帯びる。んで平成にも色んなことがあったが特に今年の皇室には激しく色んなことがあった。今年の皇室の衝撃ワードは平成最後とパラリーガルだろう。んでパラリーガルとは何なのかというギモンを受けてパラについて考えてみた。パラリーガルという語は法律事務所の職員一般を表すからパラリーガルの中には無資格の見習いさんや雑務担当者も含まれる。けれに対してパラメディカルは医療機関の職員の全てを指すものではなく対象になるのは医師以外に医療関連する優資格者に限られる。さらにパラリンガルでは職員ではなく言語学の関連もしくは周辺諸分野を意味している。こうしてみる
とパラは何かと補助的関連性をもつ何かを表すことになるが基本的に何かそのものではないという排除的あるいは否定的関係を表している。ただしパラサイコロジーなんかは確かに一瞬の心理学ではあるが超能力や心霊といった正統派が扱わない対象を扱う分野を表す。だからパラサイコロジー超心理学というより変態心理学という戦前の呼び名の方が妥当だとも言えるか。そうするとパラという接頭
辞には傍流的て外野的な意味あいが付いて回ることが解る。そうするとパラリンピックとかパラスポーツという用語は妙な感じになる。パラリンピックパラリンピックスポーツはオリ
ンピックやスポーツの枠外としてぢゃなく並列的な何かとして扱われる。こんな感じでパラは用法が一定しない何だか解らないものだと言える。だからパラリーガルの乗りで言えば土俵周りに現れるナトリのオジサンや永谷園のオジサンもパラ相撲になるだろう。