オトナたちが入れ知恵する。

オトナになって初めてセンター試験の会場に行った。そのときの弱気な精神状態のせいで苦心して会得したオトナの度胸も気合いも意識から完全に退場すると世界の印象が急に鮮やかになり何も知らないコドモの意識が帰ってきた。コドモ時代は確かに涙ぐましくも楽しい期間だった。当方は幸運にもコドモ時代はコドモにしか体験できないコドモっぽい日々を過ごせた。でも今のコドモは便利さには恵まれているが少し可哀想かも。何しろ意識の高いオトナに生まれたら最後で小さいうちから生産マシーンとしての機能性を強化されオトナの舞台に上がるゃうに誘導されてしまう。でもコドモらしく暮らせた幸せなコドモはオトナたちの手によって初めから機能性の低さを背負わされたコドモにされる。それでもコドモらしいコドモのコドモらしさは必ずしも大切にはされない。仮にヤンキーなんかの家庭に生まれでもしたらコドモのままで早め早めにオトナにされてしまう。かくてホントはオトナになっても壊れないコドモ独自の賢さは否定され今の世の中ぢゃ童話でも書くなら話は別だがコドモらしさは一般的に非生産的な盲腸的ファクタにされてしまっているようだ。
オトナによってオトナにされちゃうコドモたち。
時々現れる訴訟を起こすコドモなんかは物心ついたときからオトナにされてしまっている感じか。別にコドモが学位を取ろうと誰かを訴えようと当のコドモが好きなことをしているんだから文句はないけどホントはオトナたちが社会問題政治集会の空気やら訴訟の手順なんていう奇怪な常識や知恵だけを吹き込んでいるとしたら本気で気持ち悪い話だ。オトナにオトナにされたコドモってホントに賢くなったのか単にオトナが用意したことしか考えない人工的コドモなんだったら可哀想だ。んならコドモでいる間くらいは謎だらけの世界を天然バカで走り抜けていてほしいもんだ。あのセンター試験が近づくにつれ帰ってきた一瞬のコドモの意識。あのとき届いた願書の入ったデカい封筒の黄色も試験当日の朝の冴え渡った冷気も切ないくらい鮮明なのだ。