儒学×O・R=ユングも大好き易の世界?

18日の夜は昨今の飲み屋が少しも面白くない場所だと思い知ったが自分で出掛けてカネも使って退屈したからこそ解ったこともある。とにかく今の客が面白くない。面々は自分の期待どおりの快楽や安楽を他人に求めに来ているだけだ。そこにあるのは永遠に変わらない解りきった自己満足の世界だけなのだ。だからといって必死になって自分を利口そうに見せたがる面々も実は同じ穴のムジナで基本的に何でも自分の者日範囲内の解りきったこととして片付けたがるだけの退屈な輩だ。んぢゃ当方は人生は滅茶苦茶な出たとこ勝負ぢゃなきゃ面白くないなんて思ってるのかなんて責めないでほしい。そんな生き方の人間だらけの世の中なんて明らかに地獄だ。当方が世間に期待するのは人間が常に思いもよらない状況を設定して遊ぶこと。なんたってホントに面白いものは解りきった領域の外にあるからだ。もう現実の自分の今の心情を理解してもらうなんて小さな快楽は留保してでも嘘で固めた馬鹿馬鹿しいまでの疑問と設定で架空の世界を味わい尽くすのを勧めたい。
さすれば必ずや遊びのクオリティも劇的に変わるばかりか気が付けば自分に与えられた時間が黄金の輝きに変わっている…はずだ。
こうゆう遊びの魔力に中毒してしまうと最後は危機管理そのものが最上級の遊びに成り果てる。そして勢い余って到達した絶頂の先には思いもよらない易の世界が待っている。易は今では占いにしか利用されてないが易には中国四千年の歴史にテストされた状況パターンの数々が設定されている。だから実際の易の利用法も未来の予知よりは自分の決まりきった考えの縛りを打ッ破するためだったのだ。それは心理学のユングも注目した易のホントの魅力。つまり想定外の意識化だった。ついでに易にゃあダメ人間から聖人まで複数の対応が状況ごとに設定されているんだからゲームみたいで面白い。もちろん現代を生きる我らは古代中国では想定しきれないケースにも出会うだろうが易を読み込んでいく快楽は下手な旅行や小説より面白い。なにしろ易は筮竹パチパチで想定外が64×8パターンも出てくる楽しいゲームなんだからね。