△国の堕落儒教の心理

最近になって日本に色んなインネンを着けだした△国がホントに近代国家なのかを疑わせるトピックが増えてきている。そりゃ日本だって民主国家なのか疑わしいとこもあるが日本の場合は近代国家の機構や制度を正しく運用できていないだけのことで枠組みだけは確立されているだろう。△国が疑わしいというのは例えば法や国家機構そのものが初めから近代国家に求められる基本的要件を具えてないんぢゃないかというとこだ。例えば近代法の効力は法が制定される以前の行為には及ばないのが原則だが△国ぢゃ制定以前の行為を罰し得るという判決も出るし法律も生きている。△国は紛れもない儒教的な人治主義社会だと言われても仕方ない。もちろん△国でも親族による権力機構の独占などの旧来の悪を罰する法律もあるが現実の運用では権力を餌なった者にのみ適用されるのが通例化しているのも一例か。しかし聞いた話だと近代化できない△国の体制を激しく嘆いたのは他ならぬ△国の儒学者だったんだとか。皮肉で情けない話だ。実際に△国の労働人民は今なおインドのカーストに負けない身分制度の縛りの中にいる。
それでも人民が明るく生きているのは与えられたの状況の只中から自ら運命の突破口を探し出しているからだ。
それは民族の悲劇の歴史が産み出した悲しい知恵なのかも知れないが歪んだ儒教的倫理観や社会規範は△国社会に脅迫的ストレスを与え続けているようだ。△国の悲劇は周辺諸国の支配を受け続けた歴史そのものに体現されているのは間違いないが実は歴史そのものが儒教の変則的な導入に祟られてたんぢゃないかと思える節がある。そもそも儒教には人徳養成過程とか利害調整技術とか福祉政策論とか状況判断モデルとかの様々な側面があるが推察するに△国が導入したのは儒教の中核となる人徳養成の部分ぢゃなく磐石の権力機構の方だったのが悲劇の始まりだったよに見える。しかも余計に悲劇だったのは導入が完璧に近い中華の模倣という形で進められたとこだったか。基本的に東亜細亜儒教文化圏では大抵の属国が異民族としての立場を固く保っていたが△国は例外的で国そのものを中華帝国の枠組み内部に位置付け国内をも完全に中華帝国の秩序で動かそうとしたか。しかし儒教を模倣的に取り入れたばかりに内部で中華ごっこが始まる動機と宿命を作ってしまったとこが大きな誤算だったかも。とにかく国内では中華並みに威張れる。
しかし所詮は地政学的にも実績的にも威張れる条件もないし実際に外向きに威張れる舞台がない。それでも無理矢理に相手を探して威張ってみても手応えがないと何か威張れる根拠が欲しくなる。根拠が見つからないときゃ仕方ないから相手の評判を落としてでもが相対的に上位に立つしかない。でも模倣しても本物には変われない。威張るのも威厳ぢゃないし強がるのも強さぢゃない。相手の評判を落としても自分の評判は上がらない。信頼と尊敬は自らの本来の持ち味からしか生まれない。今やだから△国の最大の悲劇とは模倣の威厳に酔うあまり自分たちの本来の価値を長らく放棄してきたことなんだ。今や△国発のグルメとエンターテイメントは特に姑息で力任せの工作などなしに自然に世界に広がっている。たぶん人にホントの威厳があれば威張らなくても喧嘩を売らなくても天下は勝手に我が足元に服するってもんだ。これが儒教のツボのツボなんぢゃないかぃな。