今年の超アホなO・R的アイデア

昨日の月は見事な銀色になって輝いていた。とうやら貫一氏の呪いの効力は尽きたか。あるいは海より深い恨みも晴れたと考えるべきか。さて用いられない当方の恨みは高じるばかりだが用いられる値打もちないアイデアが用いられないのは当たり前のことか。さて今年も山積している世間の問題への間抜けな解決策を色々と考えたので総開きする。まずは全国で墓石の不法投棄が増えているってんで寺院の石垣に墓石を利用というのは。寺院なら墓石が集まっても気持ち悪いとかの苦情も出ないんぢゃあ。
お次は過疎地の街や商店街を社会学や経済学のフィールドワークや社会実験の場として大学に提供する。
次いで増えすぎたアカミミガメを収容して動物園のワニやジャガーの餌にするのは。こうすれば増え続ける外来カメへの対策にも経費の問題の解決にも役立つはず。深刻な問題になっているアクセルとブレーキの踏み間違いを防ぐために急激にアクセルを踏み込んだときには車の機構が減速モードになるようにする。そもそも急アクセルは法律的にも状況的にもナンセンスなだろう。米国のメキシコ国境は是非とも上が横に長い巨大展望台になっている厚いコンクリート製の壁にし入場料を取る。少しのリターンもない巨大な支出をするなんてトランプ大統領らしくない。

金色夜叉の夜と又

今日は大好きな金色夜叉のお宮が熱海の海岸の鶴やホテルの前で貫一に怒りのキックを浴びせられた1月17日だ。長らく勘違いしていたので金色夜叉を金色夜又だと思っていた時期があった。思っていた通りに読んで思いっ切り人にバカにされたこともあった。が夜叉の叉は枝分かれや股を表しているんだか夜叉だって夜又と読んで読めないこともないと後で悔しくなった。一時期の熱海は悲惨なくらいに衰退していたが変なプライドを捨てて見事な復活を果たした熱海は今や海沿いに那覇国際通りが出現したかのような他では絶対に味わえない空気感が形成されている。小さい店やコンピにも出来ている今の熱海銀座の姿が何よりエキサイティングだ。銀座というだけあって昭和感満点で射的やスマートボールの「遊技場」も健在。さりながら昭和の手作りな世界観の隙間にキラキラな現代が挟まっているのが魅力か。とにかく生まれ変わった熱海の最大の魅力は低予算なら低予算なりに楽しめとこだ。

O・Rマンと稀希勢の里の別々の悲しさ

稀勢の里の引退表明は相撲ファンばかりでなく日本じゅうに変な感じに気持ち悪いショックを残したんぢゃないか。とにかく今は今後の活躍を願うばかりだが同じ話がO・Rマンだったら別の意味で余計に悲しいはず。それは稀勢の里がO・R的に最悪中でも最悪なタイミングで引退を表明したからだ。そりゃ当人にしてみれば悩み悩んで悩み抜いて出した決断だったのかも知れないが考えた結果が思いつきと同じだったら悲しすぎる。特に今日は三敗の稀勢を力付けるために地元の大応援団が大挙して会場に乗り込んでくるという日だったのはマズい。稀勢ばかりでなく世の中はタイミングの意味や影響力を嘗めきっている。思い立ったが吉日って言う考えも役に立つのは相手が無意味に悩んで行動に出ない人だけだ。みんな本人なりに悩みはするが悩みの末に結局は思いつきで行動を起こし必要以上に損をして泣いている。稀勢が今日も負けるデメリットは今日の段階で辞めを決意するデメリットを考えたら最悪でも今日の夕刻に引退を表明すべきだったか。もちろん本人の立場に立てば冷静な判断なんか出来る余裕もないのは当たり前だ。
だからこそホントはO・Rの知恵を利用して貰いたかった。
O・Rは今なお社会に認知されていない。だから全国のO・Rマンも役に立てる場面を前にしながら何も出来ない悔しさに震えていると思う。チクショー悔しい無念だ。しかも逆にO・Rでメシが食えている人が大学で理論の解説や数式の演算だけをして満足してるのも残念だ。かつて東工大でO・Rを教えていたという民主党(当時)の鳩山元首相が沖縄の普天間基地の県外移転を提案したとき沖縄に先だって最初に米国を訪問し米国への忠誠なんかを表明してきたのを見て当方は日本では今なおO・Rの地位は低く現実には単なる教養の域に止まっているのかと絶望したのを思い出す。あんときゃ全身の体力が抜けた。今までの勉強は何だったのかと自分の存在意義さえ疑わしくなった。あんな落胆は大学院で某商事会社の次期社長候補に軽く振られたときのに勝るとも劣らなかった。もう三年くらい本の内容がアタマに入らなかった。思えば振られた気持ちを共有できそな人なら地球上に何億人といそうだがO・Rマンの悲しみと孤独を分かち合える仲間は簡単には見つかりそうもないからO・Rの悲しみの方が切ないか。

平家物語より可哀想で言えない話だった

昨日まで可哀想で可哀想で話に出せなかったがホントに希勢の里が案の定の引退表明。昨日の相撲取りで希勢の里が見せた負け方も情けなかった。むしろ情けないというよりは可哀想だった。でもホントに可哀想だと思ったのは昨日のワイドショーの空気。もう試合前から勝つ話を積極的にする人は一人もいない。それどころか話の中心が引退の時期とは可哀想で可哀想で。それを見ている当方も同じく負けを予測しながら引退の時期なんかを考えているのだった。この世にゃ他に言い様がないけど可哀想で言えない意見がある。みんなが同じように同じことを考えているのに可哀想なあまり人前ぢゃ言うに言えないことが多い。そうゆうときに日本人なら話題の核心に触れそになる寸前に極度に短い沈黙を共有することになる。心の中で全員が叫ぶ可哀想で言えない。NGT46の内部では陰湿なイジメが常態化してたんぢゃないかとか花田優一氏のゲソは貴乃花氏が引退した途端に一つも売れなくなってるんぢゃないかとかジャーナリストの乙○氏は色んな女を取っ替え引っ替えしてたと弾劾されていたけどホントは色んな女の間で取っ替え引っ替えされてたんぢゃないかとか。最後のは
一歩間違えたらシャレにならないが確かに可哀想で言えない話はある。可哀想な平家物語も当時としては可哀想で可哀想で現場ぢゃ誰も言い出せなかった可哀想な話の集大成だったに相違ない。もう一つ誰もが知ってるが誰もが出すに出せない可哀想な話がある。だけど誘惑されても哀願されても絶対的に信用できる数名以外の前ぢゃない限り絶対に話題にも出さないつもりだ。とにかく可哀想なんだ。

開運できるまでの歩み

暮れも押しつまった頃に読んだ渡邊愛子氏の瞑想本は瞑想する人が段階的に体験する日常生活の変化を具体的に示しているとこが画期的だった。こうゆう本は意外に少ないのだ。しかも本書の内容が当方の経験と見事に合致しているぢゃん。特に瞑想しているだけで自然に開運できるというとこ。んで話を開運に絞って当方の修行の歩みを振り返ってみた。密教に初めて手を出したのは20代のころだったが仏様の威力をホントに意識するのは顕教の観の修行を始めた一昨年のことだ。それから半年後には略式ながら密教の修法を加える。そして開運を実感したのは昨年も秋に入った頃。誰か特定の人に片寄って動くことなく場や領域全体に等しく作用する怪異のチカラや仕組みに接触して以降のことだ。まず観の修行では単純に仏教の理論に基づいて自分の心の構造と動きの観察を繰り返したが効果は満点で修行を始めるや以前のように意地悪な心や作為的な心が勝手に動き出さなくなってくれた。また瞬間ゝゝに分かれ道の前に立つ自分の心を観察するだけで次々に変化する状況に対しても常に前向きに対応しようという傾向が強まった。
片や密教は確かに不可思議な世界で修行が進むと実際に色んな怪異が起こり修行によって隠れた怨念が片付くと怪異も消えたりした。意外だったのは修行の効果が修行中の意識状態の変化よりも普段の活動の中の体験に現れるとこで例えば面倒が起こったときは仏様に自然に祈りたくなり祈れば事態が解決の方向に向かうことが多くなった。こうなると厄介事やトラブルも仏様の見守りを確認するチャンスみたいに感じてくる。
だから順風のときばかりでなく逆風のときには逆風なりに働いている仏様のチカラが解るようになり最後にゃ平穏無事なときにこそ仏様の絶大な威力を実感するに至った。修行中にドライブ感を感じだした頃からか急に好都合と不都合が別々に集中して起きだし次第に祈りの手応えの違いと出来事のタイプとがリアルにリンクし始めた。んなこんなで普段でも観に入ると歩けば信号は青続きだわ出掛けりゃ得な買い物が出来るわ用がある相手にゃ都合よく出くわすわギリギリで危険を回避できるわと祈れば状況が絶妙なタイミングで動くという変な体験の数々が。それが昨年の12月。これは孔雀明王真言を唱え出した時期に一致している。それにしても密教と出会ったのが20代。ただ観を知らなかったばっかりに長い回り道をしていたようだ。しかし今が最良のときだからこそ今になって初めて仏縁を頂けたんだろう。今さらながら目の当たりにできた密教の絶対平等な働きと変幻自在な仏の世界観。この幸福を今は全身で受け止めている。

儒学vsギャンブルで癒しの対決!

名曲というより怪曲というべき「夜へ急ぐ人」という歌がある。♪私の心の深い闇の中からオイデオイデする人アンタ誰ぇ?聴き終わった瞬間に思わず気持ち悪いですねぇという一声も出そうな一曲。人は時に何か得体の知れない魔力に促されるように破滅に向かうしかない道に自ら走ってしまう。純烈の友井雄亮メンバーのDVに浮気に使い込みも単純に友井氏の極悪な本性を読み取って終わりになら話は簡単だ。通に生きてる人間が危険な領域に足を踏み入れずに済んでいるのは弱必ずしも善良気な心のせいぢゃない。むしろ心の弱さ人々に幸いしてるだけかも知れない、人間の恐怖心や警戒心や猜疑心などのような陰険な部分だって身を守る手段としては見事に役に立っている。儒学では格物致知といって可能な限り自然界や人間心理の動きを事実の観察から把握しようとしてきた。そうゆうスタンスがあるから悪や過ちも取り敢えず正常な人間心理の惜しい感じの現れだと捉えようと試みる。そして 悪は封殺するのではなく悪の仕組みを知った上で防ぐものと考える。もし全ての悪を安易に異常領域に押しやって満足しちゃうなら悪は永遠に善に立ち返るチャンスを失うだろ
う。
友井メンバーは釈明・謝罪会見でギャンブルは借りたカネを早く返したいためだったと語っていた。それを人は単なる保身のための弁解だったと感じるかも知れないが少しの真実も反映してないとは言い切れない。もしかしてギャンブルに耽溺しているときの心理としてはギャンブルで損失が挽回できると感じてしまうのは正常な反応とまでは言えないが必然的反応とは言えるかもしれない気がする。極悪な振舞いは極悪な本性の持ち主の所業というより許容範囲を超えた焦りや不安や疑いに支配されたら誰でも極悪に走る危険性を抱いていると考えた方が妥当か。確かに当方の周りでもギャンブルやる人は必ずしも下品で無作法で投げ槍なキャラの人間ばかりぢゃない。かつて厄介になっていた大学の事務にもギャンブルのために公金を横領した人物がいたが印象から言えば際立ってフランクで親切で仕事も誰より丁寧 だった。それを人はカムフラージュだというだろうが本当か。少なくとも事務のオッサンは自分の極悪を隠すために善良な振りをしていたというより誠実な仕事を遂行する重圧に耐えるために悪に癒しを求めていたんぢゃないかと感じた。
友井メンバーの極悪行為の本質も明るく楽しい人格を保とうとするほど巨大化してくる宿命的な闇だったのかも知れない。もちろん悪を行う人に自己正当化の根拠なんて与える必要はないし被害者にしてみたら全ての弁解は身勝手な事情でしかない。やはり悪は悪であり過ちは過ちだ。問題なのは善の仮面ために悪に癒されようとする試み。でも悪かは人を癒してくれない。そして世の中には悪ぢゃなくても善良な人間を癒せるものは山の ように用意されている。そうゆう癒しの勉強をするのも儒学だと思うのだ。儒学は古くから音楽やアートの癒し効果に注目していた。もしやの話だが怖そうな感じのロック・ミュージシャンの中に性格が良い人々が意外に多いのも打撃的音楽そのものの癒しのパワーの証しか。

タックルで超能力を養成したい!

吉田沙保里さんが政界への進出の可能性を即座に明確に否定した景色は気持ちよかった。最近は有名人が引退するとバカの一つ覚えか下等動物の無条件反射みたいに政界進出の話が出る。悲しいことに政界は基本的に人民を下等動物的に見ているから選挙に有名人を出そうとするしマスコミはマスキングで政界を下等動物だと感じるから有名人へのアプローチを予測する。んで人民は人民で本能的な反射には抗えなず下等動物のように思わず有名人にマスキングされた特定の政党に投票してしまう。さすが霊長類最強の吉田さんは相手の動きや思惑を事前に読み取り的確で有効な技で相手を牽制したと言える。しかもバラエティーへの強い関心で相手の戦意も完璧に喪失!見事です。惚れ惚れです!ときに当方外流の体系の中心には武術があるが戦法としては徹底した接近戦と持久戦を採る。攻めるポイントは専ら相手のヒザから下とヒジから先と首に限り技法としては間接技による重心の操作と固め技による制圧のみである。というワケでタックルは方外流では極めて極めて重要な技の一つになっている。とにかく方外流ではタックル命だ。だから吉田選手の高速タックルの凄さにはゾクゾ
ク震えがくるほど興奮する。タックルは見た目が地味だが実は老獪な駆け引きや細かい工夫を要する多元的な変化技だ。下手するとタックルより面白い技なんてないかも。そもそもタックルでは見えない頭脳戦が展開されていて動作に入る前から緻密な駆け引きが始まっている。手足ばかりでなく目線の微妙な操作で相手の出方をコントロールするのだ。こうゆう見えない頭脳戦ばかりやってる吉田さんには素人同然の相手の思惑や仕掛け技なんざぁ鏡を見るよに分かりやすく見えているんだろう。もはや霊長類大金どこぢゃない。もう超能力者だ。エスパーだ。でも吉田さんにしたら恋愛は相手の気持ちが見えないから苦手なんだとか。エスパーにも見えないのが人の心なのか。それとも恋をするエスパーの能力は弱まっちゃうのか…。