形式犯

厚生労働省も融通が利くばかりに災難でした。カルロス・ゴーン氏が追及されている罪は書類の不備なんかだからゴーン氏は形式犯で会社を食い物にした罪を問われているんぢゃない。形式犯と言えば政治家が追及される犯罪は大抵が緊急避難的な帳簿処理だったが有罪になった場合も形式犯として処理さろた。この手の疑惑は主に与党で向けられるが社民党のボス的な存在も経費配分を調整する目的で調整に不正な操作を加えた。そのときの弁解では帳簿操作は至福を肥やすためぢゃなく活動資金の調整のために使ったことを強調していた。確かに形式犯というのは一般的に実害が極度に小さい。思えば今回の厚生労働省の手抜き統計疑惑も今のところ手続き上の不正や不手際が責められているに過ぎず手ねきされた統計に現実を正しく反映されていたか否かが問題にされているワケぢゃない。それで思い出したのは巨大地震の揺れに見事に耐えた姉葉マンションのことだ。不正の追及をライフワークみたいにしている人は実害のある不正行為にも人を救うための不正行為にも等しく激しい怒りを示す。もちろん正義の小さな破綻が巨大な実害の導火線になるのは当方も知ってはいる。
さり
とて自分が気に入っている法律を少しでも犯す人間を杓子定規にリンチ的に断罪するよな人には権力を与えたくない気がする。ホントは法律を節度をもって破りながら助け合っていた日本は今より幸せだったかも。

△国の堕落儒教の心理

最近になって日本に色んなインネンを着けだした△国がホントに近代国家なのかを疑わせるトピックが増えてきている。そりゃ日本だって民主国家なのか疑わしいとこもあるが日本の場合は近代国家の機構や制度を正しく運用できていないだけのことで枠組みだけは確立されているだろう。△国が疑わしいというのは例えば法や国家機構そのものが初めから近代国家に求められる基本的要件を具えてないんぢゃないかというとこだ。例えば近代法の効力は法が制定される以前の行為には及ばないのが原則だが△国ぢゃ制定以前の行為を罰し得るという判決も出るし法律も生きている。△国は紛れもない儒教的な人治主義社会だと言われても仕方ない。もちろん△国でも親族による権力機構の独占などの旧来の悪を罰する法律もあるが現実の運用では権力を餌なった者にのみ適用されるのが通例化しているのも一例か。しかし聞いた話だと近代化できない△国の体制を激しく嘆いたのは他ならぬ△国の儒学者だったんだとか。皮肉で情けない話だ。実際に△国の労働人民は今なおインドのカーストに負けない身分制度の縛りの中にいる。
それでも人民が明るく生きているのは与えられたの状況の只中から自ら運命の突破口を探し出しているからだ。
それは民族の悲劇の歴史が産み出した悲しい知恵なのかも知れないが歪んだ儒教的倫理観や社会規範は△国社会に脅迫的ストレスを与え続けているようだ。△国の悲劇は周辺諸国の支配を受け続けた歴史そのものに体現されているのは間違いないが実は歴史そのものが儒教の変則的な導入に祟られてたんぢゃないかと思える節がある。そもそも儒教には人徳養成過程とか利害調整技術とか福祉政策論とか状況判断モデルとかの様々な側面があるが推察するに△国が導入したのは儒教の中核となる人徳養成の部分ぢゃなく磐石の権力機構の方だったのが悲劇の始まりだったよに見える。しかも余計に悲劇だったのは導入が完璧に近い中華の模倣という形で進められたとこだったか。基本的に東亜細亜儒教文化圏では大抵の属国が異民族としての立場を固く保っていたが△国は例外的で国そのものを中華帝国の枠組み内部に位置付け国内をも完全に中華帝国の秩序で動かそうとしたか。しかし儒教を模倣的に取り入れたばかりに内部で中華ごっこが始まる動機と宿命を作ってしまったとこが大きな誤算だったかも。とにかく国内では中華並みに威張れる。
しかし所詮は地政学的にも実績的にも威張れる条件もないし実際に外向きに威張れる舞台がない。それでも無理矢理に相手を探して威張ってみても手応えがないと何か威張れる根拠が欲しくなる。根拠が見つからないときゃ仕方ないから相手の評判を落としてでもが相対的に上位に立つしかない。でも模倣しても本物には変われない。威張るのも威厳ぢゃないし強がるのも強さぢゃない。相手の評判を落としても自分の評判は上がらない。信頼と尊敬は自らの本来の持ち味からしか生まれない。今やだから△国の最大の悲劇とは模倣の威厳に酔うあまり自分たちの本来の価値を長らく放棄してきたことなんだ。今や△国発のグルメとエンターテイメントは特に姑息で力任せの工作などなしに自然に世界に広がっている。たぶん人にホントの威厳があれば威張らなくても喧嘩を売らなくても天下は勝手に我が足元に服するってもんだ。これが儒教のツボのツボなんぢゃないかぃな。

相撲報道の社会力学

やっぱり〜いぃ。貴乃花事件も確かに相撲協会の闇を白日の下に引き出したとこまでは少し痛快だったが当時の空気ぢゃ問題点だらけの行動なんかは正面から批判できたもんぢゃなかった。あれは何か何でも貴乃花氏を特別扱いしようとする巨大な社会的力学の現れなんぢゃないかと勘ぐってたが今度の稀勢の里の釈然としない引退が称賛を受けているのを見たときに初めて判った。当方はドンカンでした。相撲界は人気者の顔は決して潰せない仕組みで動いているのだ。よく考えてみたら相撲取りの魅力は人気を集めながら巨大化する。当然ながら相撲取りの実力もまた人気を集める大きなファクタの一つだから基本的には商売が信用で成り立つのと同じで相撲の命は人気だ。人気やヒイキが相撲界を成り立たせる絶対的な土台だとしたら人気に支えられた特定の相撲取りを批判することは結果的に背景にある膨大なヒイキの層を敵に回すことになり最終的には人気の力学で動いている相撲界そのものを否定することにもなりそうだ。ということで相撲取りを悪くいうこと自体が構造的に不可能だと結論したい。。

儒学×O・R=ユングも大好き易の世界?

18日の夜は昨今の飲み屋が少しも面白くない場所だと思い知ったが自分で出掛けてカネも使って退屈したからこそ解ったこともある。とにかく今の客が面白くない。面々は自分の期待どおりの快楽や安楽を他人に求めに来ているだけだ。そこにあるのは永遠に変わらない解りきった自己満足の世界だけなのだ。だからといって必死になって自分を利口そうに見せたがる面々も実は同じ穴のムジナで基本的に何でも自分の者日範囲内の解りきったこととして片付けたがるだけの退屈な輩だ。んぢゃ当方は人生は滅茶苦茶な出たとこ勝負ぢゃなきゃ面白くないなんて思ってるのかなんて責めないでほしい。そんな生き方の人間だらけの世の中なんて明らかに地獄だ。当方が世間に期待するのは人間が常に思いもよらない状況を設定して遊ぶこと。なんたってホントに面白いものは解りきった領域の外にあるからだ。もう現実の自分の今の心情を理解してもらうなんて小さな快楽は留保してでも嘘で固めた馬鹿馬鹿しいまでの疑問と設定で架空の世界を味わい尽くすのを勧めたい。
さすれば必ずや遊びのクオリティも劇的に変わるばかりか気が付けば自分に与えられた時間が黄金の輝きに変わっている…はずだ。
こうゆう遊びの魔力に中毒してしまうと最後は危機管理そのものが最上級の遊びに成り果てる。そして勢い余って到達した絶頂の先には思いもよらない易の世界が待っている。易は今では占いにしか利用されてないが易には中国四千年の歴史にテストされた状況パターンの数々が設定されている。だから実際の易の利用法も未来の予知よりは自分の決まりきった考えの縛りを打ッ破するためだったのだ。それは心理学のユングも注目した易のホントの魅力。つまり想定外の意識化だった。ついでに易にゃあダメ人間から聖人まで複数の対応が状況ごとに設定されているんだからゲームみたいで面白い。もちろん現代を生きる我らは古代中国では想定しきれないケースにも出会うだろうが易を読み込んでいく快楽は下手な旅行や小説より面白い。なにしろ易は筮竹パチパチで想定外が64×8パターンも出てくる楽しいゲームなんだからね。

オトナたちが入れ知恵する。

オトナになって初めてセンター試験の会場に行った。そのときの弱気な精神状態のせいで苦心して会得したオトナの度胸も気合いも意識から完全に退場すると世界の印象が急に鮮やかになり何も知らないコドモの意識が帰ってきた。コドモ時代は確かに涙ぐましくも楽しい期間だった。当方は幸運にもコドモ時代はコドモにしか体験できないコドモっぽい日々を過ごせた。でも今のコドモは便利さには恵まれているが少し可哀想かも。何しろ意識の高いオトナに生まれたら最後で小さいうちから生産マシーンとしての機能性を強化されオトナの舞台に上がるゃうに誘導されてしまう。でもコドモらしく暮らせた幸せなコドモはオトナたちの手によって初めから機能性の低さを背負わされたコドモにされる。それでもコドモらしいコドモのコドモらしさは必ずしも大切にはされない。仮にヤンキーなんかの家庭に生まれでもしたらコドモのままで早め早めにオトナにされてしまう。かくてホントはオトナになっても壊れないコドモ独自の賢さは否定され今の世の中ぢゃ童話でも書くなら話は別だがコドモらしさは一般的に非生産的な盲腸的ファクタにされてしまっているようだ。
オトナによってオトナにされちゃうコドモたち。
時々現れる訴訟を起こすコドモなんかは物心ついたときからオトナにされてしまっている感じか。別にコドモが学位を取ろうと誰かを訴えようと当のコドモが好きなことをしているんだから文句はないけどホントはオトナたちが社会問題政治集会の空気やら訴訟の手順なんていう奇怪な常識や知恵だけを吹き込んでいるとしたら本気で気持ち悪い話だ。オトナにオトナにされたコドモってホントに賢くなったのか単にオトナが用意したことしか考えない人工的コドモなんだったら可哀想だ。んならコドモでいる間くらいは謎だらけの世界を天然バカで走り抜けていてほしいもんだ。あのセンター試験が近づくにつれ帰ってきた一瞬のコドモの意識。あのとき届いた願書の入ったデカい封筒の黄色も試験当日の朝の冴え渡った冷気も切ないくらい鮮明なのだ。

会いに行けるアイドルは会いに行けない

NGTの山口眞帆さんもドイヒーな目に遭ったもんだが事態が予想外の方向へと物凄い勢いで巨大化している状況そのものが山口さんにとっては新たな苦痛になるに違いない。ここで改めて確認しよう。会いに行けるアイドルのファンは普通の意味でアイドルに会いに行ってはダメなのです。そういえば昔のゲイシャがホントに会いに行けるアイドルだったことを多くの人々が知らないし忘れている。もちろん現在の会いに行けるアイドルと当時のゲイシャとは成り立ちも境遇もコンセプトも大違いだが確かにゲイシャは街のアイドルという側面を持っていたし山口さんと同じように温かいファンに支えられる一方で悪質なファンにも悩まされていたようだ。聖地は草深い田舎の小さな街に過ぎないが昭和50年代に入るくらいまでは驚くほど多くの料亭があり今のアイドルと近い世代のゲイシャさんも多数活動していた。今は別々の世界に入った元ゲイシャさんたちや当時の街の若者たちに話を聞いてみたら実際に若いゲイシャさんは地域のアイドルやスタアだったらしい。街の食堂や喫茶店(なぜか当時は喫茶部と呼ばれていたようだ)で街の若者たちもオフのときのゲイシ
さんたちと普通に会話できていたらしい。また大多数の節度あるファンたちはアイドルの寮の場所を知ってはいたが特別な接近工作は控えていたそうな。ただし夜な夜な寮の前で待ち伏せしたり酔った勢いで過激なアピールを試みるストーカー的なファンもいたのだとか。むしろ普段の生活空間の中で普通の仲間のように接していたファンの方が実はアイドルからも好感を持たれていたとも。ゲイシャの間での陰湿なイジメやネガティブ・キャンペーンもあり芸よりイロで人気を勝ち取るメンバーが持て囃されたりして不条理に苦しむアイドルもいたのだとか。ある時期に一人の巨乳アイドルが通っていた食堂はアイドル目当ての客で異様な繁盛を見せたという話も。しかし店も複雑な気持ちだったし当のアイドルは実は自分の巨乳が嫌いで悩みのタネにもなっていたんだとか。今のファンなら押しメンのアイドルに好感を持ってもらうのにプレゼントを送るのかも知れないが昔の太オタみたいなファンは座敷という限られた時間の中でアイドルを楽しませるよう努力をした。んなファンが芸人みたいなセンスを磨いてたせいで街にはツカミの上手い面白人間が増殖していたんだとや。
確かに今でもオタ芸の人は不思議と明るいもんね。んで今なお聖地には男女を分けず日舞や楽器ができたり笑いが取れたりする年寄りが格段に多い。それが聖地に限らず今ぢゃ飲んでも鬱憤晴らしくらいしかない客だらけになった日本の街は退屈で仕方ない。AKBや吉本みたいな人為がなくても昔はホントに会いに行けるアイドルやゲーニンがいたのだね。もはや会いに行けるどころか隣のゲーニンやアイドル!

何よりも面白いのは見たことも聞いたこともない世界

久しぶりに飲み屋さんに行ったら他の客がいないせいか特に面白くもなかった。それは賑やかぢゃないからぢゃなく今や飲み屋という場所が面白くもない人々にしか対応できない退屈な場所に成り下がっているからだと気づいた。こうゆうとこに集まる面々は概して仲良しだが話題はパチンコやらクルマやら人気のドラマであり仲間うちの噂といった自分たちが日常生活の中で出会う共通の出来事に限られる。でも面々が退屈なのは話題が狭いからなワケぢゃない。面々と話していて虚しさを感じるのは面々が自分たちの知らない世界を意図的に拒絶しているからだ。面々が話題にするのはは常に自分たちの見たこと聞いたこと体験したことだけに限られる。そして実際に自分たちの生活領域には入って来ない情報に反応する能力を養成する機会も与えられない。でも実は本当に面白いことは自分たちが見たこともなく聞いたこともなく体験するのが初めから不可能に見えることなんだ。おそらく対決な相手とは見たことない世界の面白さを共有して楽しめない人気のことだ。ありていに言うと見て効いて体験したことしか話題に出来ない人々はバカと呼ばれる人々だ。